観る者を迷路に引きずり込む「バーニング」を観て | パンクフロイドのブログ

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キネカ大森

映画で読み解く村上春樹 より

 

もっと早く観たかったのですが、諸事情が重なり、

公開からほぼ4ヶ月経っての鑑賞となりました。

そのおかげで、同じ村上春樹原作の映画化「トニー滝谷」も

一緒に観ることができたので、果報は寝て待てと言ったところでしょうか(違)。

 

製作:韓国

監督:イ・チャンドン

脚本:オ・ジョンミ イ・チャンドン

原作:村上春樹

撮影:ホン・ギョンピョ

美術:シン・ジョムヒ

音楽:モグ

出演:ユ・アイン スティーヴン・ユアン チョン・ジョンソ

2019年2月1日公開

 

映画.comより

アルバイトで生計を立てる小説家志望の青年ジョンス(ユ・アイン)は、幼なじみの女性ヘミ(チョン・ジョンソ)と偶然再会し、彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれる。旅行から戻ったヘミは、アフリカで知り合ったという謎めいた金持ちの男ベン(スティーヴン・ユアン)をジョンスに紹介する。ある日、ベンはヘミと一緒にジョンスの自宅を訪れ、「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」という秘密を打ち明ける。そして、その日を境にヘミが忽然と姿を消してしまう。ヘミに強く惹かれていたジョンスは、必死で彼女の行方を捜すが……。

 

イ・チャンドン監督の作品としては「ポエトリー アグネスの詩」以来の新作で、村上春樹の原作のせいか、今までの彼の映画とは毛色の異なる作品に仕上がっています。幼なじみで肉体関係もある女性が、突然行方不明になり、作家志望の若者がアフリカで彼女と知り合った金持ちの男性に疑いをかける物語です。そして、真実がどこにあるのか、迷路に入り込む展開は、黒澤明の「羅生門」と相通ずる構造があります。

 

ジョンスが疑いをかけるベンは、仲間と時折パーティーを開く以外は、仕事もせずに優雅に暮らしています。その一方で、彼はジョンスに定期的にビニールハウスを放火していることを打ち明け、不穏な空気を醸し出します。ジョンスはヘミと寝たものの、ベンも彼女と関係を持っていると疑っています。そんな折、ジョンスはヘミと連絡が取れなくなり、ベンが彼女を殺したのではないかと疑惑を抱くようになります。

 

確かにベンにはジョンスが疑いを持つような怪しいところがあるのですが、状況証拠のみで犯行を裏づける決め手にはなっていません。ベンのマンションには、ジョンスがヘミにプレゼントした時計が置いてありますし、ヘミが飼っていたペットらしき猫もいます。ただし、時計は彼女が置き忘れてベンが保管していたとも言えますし、ジョンスが猫の名前を呼んで反応したことも、決定的な証拠とはなりません。第一、ジョンスはヘミのアパートで飼い猫の姿を一度も目にしていないのですから。

 

劇中ではジョンスとヘミの濡れ場があることで、観客は二人がデキているという認識で話が進められますが、それにしては帰国後のジョンスに対するヘミの対応が素っ気ありません。もちろん、アフリカ旅行中にベンと知り合い、心変わりした可能性があり、それが態度に表れたとも言えます。その一方で、ジョンスがヘミの部屋でシコる描写を見せられると、本当に彼女とヤッたの?と疑いたくもなります。

 

また、ベンがビニールハウスを定期的に燃やす話も、彼から聞いただけで、ジョンスが過去の話を確かめた訳でもありません。ベンがジョンスの家の近くのビニールハウスを燃やしたと話した件にしても、ジョンスが調べた限りでは、その形跡は見当たりません。他にもヘミが子供の頃に井戸に落ちた話は、家族が井戸そのものの存在を否定し、近所のおじさんも井戸はなかったと証言しています。その一方で、16年振りに再会した母親は、水のない井戸があったと断言し、どれが真実なのか、提示される材料自体が判断しにくいために、物語は益々混迷の度合いを深めて行きます。

 

更に、ジョンスには子供の頃に、母親が家族を捨てて失踪したことがトラウマになっています。父親から母親の服を燃やすよう命じられ、ジョンスは心に深い傷を負います。そして、ベンによるビニールハウスの放火話が、具体的なイメージを伴ってジョンスの心に刻まれ、巡り巡って最後の惨劇へと繋がっていきます。それはシドニー・ポラック監督の「ひとりぼっちの青春」のマイケル・サラザンが「廃馬は撃ち殺す」という強迫観念に苛まれる部分と似たところがあり、ジョンスは実行に移すことによって、過去の呪縛から解き放たれようとした節も見受けられます。

 

ただし、「ひとりぼっちの青春」の主人公と違う点は、ジョンスが出発点の段階で勘違いをしていることが否めない事。ベンの放火話を始め、ベンはヘミと関係があるのか、ベンが彼女を殺したのか、いずれも確証が取れていません。もし、前提部分が誤りならば、悲劇ではなくむしろ喜劇になってしまいますね。こうした諸々の点が常に曖昧であり、謎が謎のまま残されて終わるので、観ているこちらもどんよりとした気分を味わいながら、劇場を後にすることとなります。