現在観ても観念的でわかりにくい映画 「あらかじめ失われた恋人たちよ」を観 | パンクフロイドのブログ

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神保町シアター

七〇年代の憂鬱-退廃と情熱の映画史 より

 

 

製作:ポール・ヴォールト・プロ ATG

監督・脚本:清水邦夫 田原総一郎

撮影:奥村祐治

美術:清水邦夫

音楽:成毛滋

出演:石橋蓮司 桃井かおり 加納典明 緑魔子 蜷川幸雄 蟹江敬三 カルメン・マキ

1971年11月6日公開

 

饒舌な哮(石橋蓮司)は、北陸を気ままに旅していました。彼は、バスの中で乗り合わせた中年夫婦が降りると、突然刺身包丁をつきつけて金を脅し取るかと思えば、売春をする主婦から痴漢の冤罪をかけられた挙句、警察の留置所に入れられる苦い思いをします。よそ者を排除する地域の共同体に腹を立てた哮は、ロックバンドの演奏を利用してアジるものの、聴衆にはソッポを向かれ、バンドのメンバーにも呆れられます。

 

やがて彼は、スーパーマーケットの一角で、宣伝に雇われた金粉を塗った若い男(加納典明)と女(桃井かおり)に惹きつけられます。哮は彼らと行動を共にするうちに、二人が聾唖者であることに気づきます。ある夜、町の若者たちが、三人のねぐらを襲い、女を攫ってゆきます。哮は男と必死に彼女のあとを追いますが見つからず、翌朝引き裂かれた服をまとったまま、若い女は何事もなかったようにねぐらに帰ってきます。

 

哮と若い男は、女をさらった若者たちが石炭石の採掘現場で働いていることを知ると、ナイフと刺身包丁でつぎつぎに刺して彼らに報復します。三人は米軍の残していった空の弾薬庫を新たなねぐらにして生活を始めます。しかし、饒舌な哮は言葉を発しない聾唖者の世界に入れないもどかしさを感じます。

 

そんな折、三人は二人の刑事に訊問され、男は刑事を突き飛ばし逃走します。哮は刑事から男が女の許婚を刺したことを聞かされますが、なぜ二人が一緒にいるのかまでは判りませんでした。残された彼は女の体を愛撫し、女も応えようとしますが、男は突然二人の前に姿を現します。再び聾唖者同士の親密な世界が繰り広げられ、哮はより疎外感を味わいます。

 

自棄になった彼は、地元の人間たちに白黒ショーを見せると豪語し、三人のねぐらに連れてきますが、彼らの浅ましい視線をモノともせず、二人は濃厚なSEXを見せつけます。哮は饒舌に発していた言葉が、ひどく空しいものに思え、次第に口数が少なくなり、聾唖者に同化していくようになりますが・・・。

 

学生の頃に一度観たきりで、ほとんど内容を覚えていませんでした。白黒映画だったことも、つのだ☆ひろの「メリー・ジェーン」が劇中で流れていたことも、スッポリ頭から抜け落ちていた位ですから、扉を開けた途端突然カルメン・マキが現れる場面や、石橋蓮司と頭のおかしな役の緑魔子が、池?沼?に浮かべた板の上でシュールなやり取りをする場面も忘れ去られていました。

 

その理由も映画を観て行くと当然で、あらゆるものが脈絡なく唐突に目の前に差し出されるため、疑問が先に立ち話に集中できなくなってくるのです。ストーリーで観客を惹きつける類の映画でないと理解しているものの、それを差し引いたとしても、他の要素で画面に惹きつけられる要素も乏しいです。桃井かおりと加納典明を聾唖者の設定にしたため、石橋蓮司が喋り倒す展開になり、必然的に単調な話の流れになってしまったのもつまらなくなった要因のひとつに挙げられます。

 

それでも石橋は時にアドリブも交え、孤軍奮闘していますが、セリフ自体が観念的な上に上滑りをしていて、心に響いて来ません(それが作り手の狙いかもしれませんが)。また、役者が本職でない加納典明を聾唖者にしたのは良しとしても、桃井かおりに関しては明らかに宝の持ち腐れ。やはり、彼女は声を発してこそ個性が発揮できる女優です。

 

本作は清水邦夫と田原総一朗が共同で監督と脚本を手掛けています。ただし、KINE NOTEによると、演出を田原、シナリオを清水が主に分担していると書いている一方、ウィキペディアには田原があまりにも撮影の手順を知らないため、助監督の尾中洋一が実質的に現場を指揮していたと記述してあります。

 

前述した記憶の欠落の原因も、脚本はともかく、共同で監督した作品に成功例があまり見当たらないことを思えば、退屈な内容にも納得します。唯一、成毛滋の音楽だけは良く、この映画の数少ない救いになっていました。これは田原が東京12チャンネルのディレクターだった時に、ロックバンドの外道のドキュメンタリーを制作していたことが糧となっていたように思います。