ハリウッドよ、これが時代劇だ 「沓掛時次郎 遊侠一匹」を観て | パンクフロイドのブログ

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池袋 新文芸坐

【春日太一と新文芸坐のオススメ時代劇映画祭】 より


春日太一氏の「なぜ時代劇は滅びるのか」「時代劇ベスト100」の刊行記念と称して、時代劇の特集が名画座で組まれました。日によってはトークショーもあるようですが、トークショーを聴きに行く目的ではないので、時間をやりくりしながら、なるべく未見の映画を目当てに鑑賞することにしました。中でも「沓掛時次郎遊侠一匹」は以前から観たかった作品で、念願叶って観ることができました。



沓掛時次郎 遊侠一匹


製作:東映監督:加藤泰

脚本:鈴木尚之 掛札昌裕

原作:長谷川伸

撮影:古谷伸

美術:井川徳道

音楽:斎藤一郎

出演:中村錦之助 池内淳子 東千代之介 渥美清 岡崎二朗

    清川虹子 弓恵子 阿部九州男

1966年4月1日公開


渡世人の沓掛時次郎(中村錦之助)は、身延の朝吉(渥美清)と共に旅を続けていました。兄のように慕う朝吉を可愛く思いながらも、時次郎は朝吉をやくざの世界から、足を洗わせたいと思っています。二人は宿に泊まりますが、朝吉は女郎を買いに、時次郎は賭場に出向きます。


時次郎は一人勝ちしており、賭場を仕切っている佐原の勘蔵一家の親分(高松錦之助)の娘お葉(弓恵子)は、その様子を苦々しく見ていました。お葉は自分の身体を賭けて差しの勝負をしようと、背中の観音像の入れ墨を見せますが、時次郎は相手にせずその場を去ります。


彼女は子分に時次郎の泊まっている宿を突き止めさせ、朝吉と共に勘蔵一家に招きます。連れの朝吉は、思わぬ歓待に舞い上がりますが、時次郎は勘蔵一家の厚遇には裏があると睨みます。事実、勘蔵一家は牛堀一家に押されており、朝吉が繰り出したばかりの女郎屋を乗っ取られていました。お葉は時次郎の噂を聞きつけて、助っ人に駆りだそうという腹積もりでした。


お葉は名のある渡世人は草鞋銭を渡せば、義理を感じて助っ人を引き受けてくれると思っていましたが、時次郎には彼女の魂胆はお見通しで、わざと言葉通りに受け取り出立します。ところが、馬鹿正直な朝吉は時次郎の行為に憤慨して、勘蔵一家のところに戻ってしまいます。


朝吉は、時次郎ほどの腕はないができるだけの加勢をするから、旅立った兄貴分の事は勘弁してくれと頭を下げて、単身殴り込みに行きます。一方時次郎は、朝吉の身を心配し勘蔵一家に戻るものの、朝吉一人だけで牛堀一家の待つ野澤屋に向かわせた事を知り、野澤屋に駆けつけます。


しかし、時既に遅し。朝吉は惨殺され、時次郎は怒りのあまり、牛堀一家を一人残らず叩き斬ります。更に、子分を連れて駆けつけたお葉が、朝吉の遺体を葬ろうと近づくと、それを制して自分が始末をつけると言い、位牌を富士の見える故郷の川に流します。


位牌を流した後、時次郎が渡り舟に乗り込もうとした時に、母親と幼い息子も乗って来きます。母親のおきぬ(池内淳子)が柿を分け与えたことが縁で、時次郎はしばらく母子と行動を共にし、親しくなっていきます。やがて、時次郎は峠の分かれ道で二人に別れを告げ、鴻巣金兵衛(堀正夫)の家に草鞋を脱ぎます。


鴻巣一家に落ち着いたものの、子分たちの慌ただしい動きに、出入りが近いと感じた時次郎は、面倒に巻き込まれないうちに辞去しようとします。しかし、金兵衛の子分たちに怖気づいたかのように皮肉られ、時次郎は金兵衛の頼みでやむなく、縁もゆかりもない六ツ田の三蔵(東千代之介)を斬る羽目になります。


その頃、三蔵は鴻巣一家が襲撃してくると察し、女房と子供を裏から逃がしていました。時次郎は三蔵の前に現れ、仁義を切った上で、渡世の義理で三蔵を斬らねばならない理由を説明します。三蔵はそれを承知し、二人は差しの勝負をします。時次郎は三蔵の腹を斬り、三蔵にとどめを刺そうとした金兵衛の子分の腕を叩き斬ります。


三蔵は息を引き取る前に、二つに折った櫛を時次郎に渡し、妻子を熊谷在の惣兵衛の所まで送り届けてくれるよう頼みます。時次郎は三蔵の願いを聞き入れ、宿場はずれの水神の祠に潜む母子の元に向かいます。そこで時次郎が目にした二人は、渡り舟で知り合ったおきぬと太郎吉(中村信次郎)の親子でした。


一昨年、「日本よ、これが映画だ」と大見得切ったアメリカ映画のキャッチコピーがありましたが、ならば「ハリウッドよ、これが時代劇だ」と、そっくり返したくなる映画が、「沓掛時次郎 遊侠一匹」です。たとえ、アメリカが物量作戦で時代劇を作ったとしても、様式美の殺陣、他者を思いやる心遣い、自己犠牲を厭わない精神などは、自己主張の強い欧米人では、物語として成立しないでしょう。


特に自嘲気味に宿屋の女将に今までの経緯を友達の話として語る時次郎と、本人の話と分かっていながら、友達の話として聴いてあげる女将の阿吽の呼吸は見事であり、長回しによる錦之助の情感溢れる芝居が圧巻です。


また、好きになってはいけない人を、愛してしまった男女の苦悩が入り混じり、メロドラマとしても見応えがあります。夫の仇であり、恩人でもある時次郎への揺れる思いから、一旦彼の前から姿を消すおきぬの苦しい胸の裡は、亡き夫への義理だけでは片づけられない切実なものがあります。しかも、おきぬも時次郎も、全て自分の胸の中にしまおうとするのです。


時次郎の渡世人としてのダンディズムも、彼の人柄を良く伝えています。博奕に溺れることなく、賭け事における一瞬のスリルを楽しんでいることがわかり、お葉が自分の体を賭けて勝負を挑もうとするのを、「博奕は好きだが、博奕打ちの女は嫌いだ」と、軽くいなして賭場を去るのが粋です。


更に、時次郎を助っ人として利用したいお葉の目論見をいち早く察して、草鞋銭を額面通りに受け取り、暇を告げるあたりはユーモラスな雰囲気も漂わせ、時次郎の人間的な魅力がより一層引き立っています。


また、序盤における渥美清の存在も見逃せません。歯切れの良いセリフがポンポン飛び出し、寡黙な錦之助とのコンビネーションも抜群にいいです。かと思えば、遊女の三原葉子の蛇の刺青にひれ伏す芝居で笑わせるなど、渥美清は脇に回っても、自分も相手も輝かせることのできる役者であると、改めて感じ入った次第です。


とにかく語り切れないほど、全てが名場面と言いたいくらい見どころの詰まった作品で、加藤泰の演出には日本人の美徳と美意識が凝縮されています。二つに折った櫛ひとつで、男女の思いが伝わる映画って、そうそうないですよ。