見立て通りとは行かなかった 「ザ・マスター」を観て | パンクフロイドのブログ

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第二次世界大戦が終わり、海軍の帰還兵であるフレディ(ホアキン・フェニックス)は日常を取り戻していたが、戦地で患ったアルコール依存を断ち切れず、職場で問題を起こしてしまう。あてのない旅に出た彼は、密航した船で“ザ・コーズ”という新興宗教団体に遭遇し、教団の指導者であるマスター(フィリップ・シーモア・ホフマン)に迎えられる。そこからフレディの人生は180°変わる。フレディは次第に、マスターの右腕になっていくが、彼の人格を疑うマスターの妻ペギー(エイミー・アダムス)は、フレディの追放を狙い始める。


ザ・マスター 公式サイト



パンクフロイドのブログ-ザ・マスター1


製作:アメリカ

監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン

撮影:ミハイ・マライメア・Jr

音楽:ジョニー・グリーンウッド

出演:ホアキン・フェニックス フィリップ・シーモア・ホフマン

    エイミー・アダムス  ローラ・ダーン

2013322日公開


第二次世界大戦末期。海軍勤務のフレディ・クエル(ホアキン・フェニックス)は、ビーチで酒に溺れ憂さ晴らしをしていました。やがて日本の敗北宣言によって太平洋戦争は終結。だが戦時中に作り出した自前のカクテルにハマり、フレディはアルコール依存から抜け出せず、酒を片手にカリフォルニアを放浪しては滞留地で問題を起こす毎日でした。PTSD(心的外傷後遺症)は、ベトナム戦争後を対象にした映画ではよく出てくる題材ですが、第二次世界大戦後を扱う作品では比較的珍しい。フレディは除隊になる前、ロールシャッハテストを受け、いずれもセックスに結びつけてしまうところが面白いです。


ある日、彼はたまたま目についた婚礼パーティーの準備をする船に密航、その船で結婚式を司る男と面会します。その男、“マスター”ことランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、フレディのことを咎めるどころか、密航を許し歓迎します。フレディはこれまで出会ったことのないタイプのキャラクターに興味を持ち、下船後もマスターのそばを離れず、マスターもまた行き場のないフレディを無条件に受け入れ、彼らの絆は急速に深まっていきます。



パンクフロイドのブログ-ザ・マスター2


マスターを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンは悪くはありませんが、同じポール・トーマス・アンダーソンが監督した「マグノリア」でのトム・クルーズ演じる女性の口説き方を指南する男に比べると、教祖としてのカリスマ性に欠けます。また、トムほど戯画化されていないので、笑いも取っていません。一方、ホアキン・フェニックスのフレディは程よく枯れた味わいがあり、暴力衝動を抑えられない男を好演していました。


マスターは“ザ・コーズ”という団体を率いて力をつけつつあった大物思想家です。独自の哲学とメソッドによって、悩める人々の心を解放していくという治療を施していました。1950年代、社会は戦後好景気に沸いていましたが、その一方では心的外傷に苦しむ帰還兵や神秘的な導きが欲されていた時代であり、“ザ・コーズ”とマスターの支持者は急増していきました。


フレディにもカウンセリングが繰り返され、自制のきかなかった感情が少しずつコントロールできるようになっていきます。信者同士が互いに向き合い、相手が投げかける言葉に反応しないようにするテストや、壁と窓際を行ったり来たりして、頭に浮かぶものを言葉で表現する方法など、興味深くはあるものの、果たしてそれがどのくらい有効なのかはわかりません。マスターはフレディを後継者のように扱い、フレディもまたマスターを完全に信用していました。


そんな中、マスターの活動を批判する者も現れますが、彼の右腕となったフレディは、暴力によって口を封じていきます。マスターは暴力での解決を望まなかったものの、結果的にはフレディの働きによって教団は守られる形となります。しかし、酒癖が悪く暴力的なフレディの存在が“ザ・コーズ”に悪影響を与えると考えるマスターの妻ペギー(エイミー・アダムス)は、マスターにフレディの追放を示唆します。フレディにも断酒を迫りますが、彼はそう簡単にはアルコール依存から抜けることができませんでした。


ペギーは教団を維持することに力を入れ、極端に異分子の存在を嫌います。彼女の潔癖性は夫にも向けられ、身重の妻とセックスができないマスターが浮気をしないように、彼の自慰行為を手伝う場面は、ある種鬼気迫るものがあります。やがてフレディのカウンセリングやセッションもうまくいかなくなり、彼はそのたびに感情を爆発させ、周囲との均衡が保てなくなっていきます。


それぞれ思惑のある人物が、新興宗教団体の中で繰り広げるドロドロしたドラマとしては、一応の水準を保っているものの、如何せん物語が膨らまないため、観ているうちにこちらも飽きてきます。拘置所の中でフレディとマスターが罵り合う場面は見ものではあります。ただし、私が一番緊迫したのは、フレディがマスターの前から姿を消して、昔のガールフレンドを訪ねる場面です。彼女は既に結婚しており、実家にはいません。母親がフレディに応対し、落胆する彼を気遣います。娘の住所を教えようとしたり、家の中に入らないかと誘ったりしますが、彼はいずれも断ります。フレディが自己を抑えようとしているのがわかるので、観ているこちらはいつ爆発するのかハラハラしてしまいます。



パンクフロイドのブログ-ザ・マスター3


物語の根幹部分にノレれない分、当時の登場人物の髪型やファションなど、枝葉の部分に目が向いてしまうのは仕方ないでしょう。フレディは社会復帰後に、記念写真を撮るカメラマンの職を得ます。彼の被写体になる人物たちが、いずれも50年代からそのまま抜け出てきたような人物に仕立てられているので、その化け具合に感心してしまいました。


チラシにはニューヨークタイムズの「こんな壮大な傑作は、見たことがなかった」、ロサンゼルス・タイムズの「この俳優たちの演技は、誰も打ち負かすことができない」、ローリング・ストーン誌の「新たなアメリカン・クラシック映画の誕生。足腰が立たなくなるような映画」と賛辞が並べられていました。また、市の図書館に置いてある最新の「キネマ旬報」を読むと、レビューで3人の映画評論家が高い評価をしています。まして、私を驚喜させた「マグノリア」の監督ですから、どうしても期待値は高くなります。


普段、未知の監督に対しては評価の高過ぎる映画を用心するのですが、既に過去作を観ていて私が監督を気に入った場合に関しては、他者の賞賛の言葉が逆に裏づけに思えてしまうから、メディアの批評と自分の思い込みは怖いものです。「ザ・マスター」はそれほど酷いレベルの映画ではありません。ただ、ポール・トーマス・アンダーソンが、この程度の映画で満足してもらっては困ります。彼にはもう一度、重層的に絡み合う難易度の高い物語を作ってもらいたいものです。