久々に、「崖の上のポニョ」がテレビ放映されました。
このアニメ適度に出鱈目で私は大好きです。
そして、「女の子が男の子に会いたいというだけで、町を水没させたり、世界を危機に陥れるような話はいけない」という良心的な人も恐らく世の中にはいるでしょう。
何がいけないのか、「個人的なことで公益に大きな被害が出る話がいけない」という見方でしょうが、そういう見方は実に大人な、つまり政治的な見方なのではないかと思います。
ところで宮崎監督はそういう政治的なテーマは作品で語らない人ではないかと思っていたら、実際そう公言しているようです。
人によっては、環境問題をテーマにすることで左翼と見る向きもありますが、これは昔日本において左翼の人たちがエコロジーを語るようになったという点に起因している偏った見方で、何でもかんでも政治的に語れると思うと、そういう思い違いをするのだと思っています。
しかしながら、政治的なテーマを語らない代わりに、政治と離れた正義を貫く人が政治の立場から非難、敵対される作品は度々描いています。
ただ、貫く人は人をやめて、豚だったり、山犬の娘になっているので、そもそも人間の政治の側に立つ必要はなくなっている訳ですが。
たとえば、「紅の豚」のポルコは戦争で仲間を失い、戦争と離れた所で飛行気乗りである為に豚になりました、これは人間である限り政治と関わり戦争と関わらなければならなくなるからでしょう。
「もののけ姫」のサンも、山犬の娘という立場から、鉄を生産する人々が木を伐採したりするのに対立しています。これも工業化による豊かな生活を旨とする政治的な正義と対立している訳です。
しかしながら、この世界の正義のあり方を政治から離れた部分で描き出す姿を人をやめた者を通して描くのは、アニメーションという非現実を現実化できるメディアだからこそ出来るのではないかという気がするのです。
また、ポルコもサンも人と人ならざるものの狭間で揺り動かされる存在です。
さて、偉く長くなりましたが、ポニョにおいてはこれに該当するのはポニョではなく、父親のフジモトです。
人でありながら、海を愛し、海の女神と結ばれて海を護る立場になった人です。
そう、地球の為に人類の滅びを用意していた彼も人を捨てた存在です。
しかし、今までと違うのは揺り動かされる存在に子供がいるということです。
子供に親の事情なんか関係ありません。
お陰で悩んで人間を捨てたフジモトを差し置いて、ポニョはいともあっさりとハムを食い人間の道を選びます。
実はポニョは宮崎監督が息子の為に作った、という旨の発言をしていた気がするのですが、ポニョはそんな父親に反抗して、逆に半魚人の正体を持ちながら人として生きることが出来るのかが本筋になります。
ファミリー向けのイメージに反して実に情報が詰まったジプリのアニメの中でもポニョは子供に向けたつくりで比較的シンプルですが、故に簡潔に宗助がポニョの存在を認め、ともに生きる選択をする事でこの物語は完結します。
思えば、山犬の娘のサンが抱えていた葛藤は当人のもの、ここではフジモトの葛藤ですが、それを子供の代にまで敢えて強制しないのも親の愛ではないでしょうか。
そうなるとフジモトは宮崎監督を反映し、子供は・・・言わずもがな。
つまりジプリで作品を作り続けるであろう息子に宮崎駿の作風にこだわる必要はないという肯定なのかな・・・と思うのですが、どうでしょう。
まあ、他に・・・というか、これは私がリアルタイムで見た感想ですが、実は人間が自然を護ると言っても人間をやめてまでできるのか、これは子供が親を裏切る事で一つの破綻ともいえるのかな・・・とか思ってて、結構そういうところも好きなんですけどね。
そもそも環境問題に真面目に向き合わなければこういう形の破綻さえも思いつきはしないだろうから。
追伸
宮崎監督は映画にテーマが要らないと言ったので、政治的なテーマ云々とは言ってないという指摘を頂きました。
ただ、映画そのものに傾向や作風があって、それについて語ってみたんだけどね。
結局の所、作品を語ることは思い入れや琴線に触れた部分を語るので、正しい読み方や意味を模索しても誤読することもあるし、逆にあかの他人が作り手の想いを代弁というのはおこがましいとは思うんだけどね。
正しい読み方があったとして、みんながそれに固執したら、誰が語っても同じ文章しか出来ない訳で。
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