京都、龍安寺のつくばいに記されている文字として有名
龍安寺は禅寺なので、禅の教えと言われますが
『吾唯足知』の意味として
今目の前にある当たり前をありがたく思いなさい
的な解釈があるのですが…
それはそれで「確かに」と思うところもあります
でも、何となく、それでは納得できないと思ってました
例えば、暴君が居たとして
「増税って言ったって、とりあえず雨風しのげてるんだし
飢え死にしたりしないだろう。満足しろ」
って言い聞かす時に使われたら納得しないし
「地球上には、明日食べる者にも困ってる地域の子供も
いるんだよ。日本は平和なんだし、何文句があるの?」
って、時に使われても
私、自分より悪環境の人と比べて自分の方がマシ
って考えかた自体が好きじゃないです
それって、カースト制とかの始まりでしょ?
で、最近、自分の相方さんからも『吾唯足知』って言葉が出てきて
「東洋思想って使えないよね」ってこと言ったんで
私なりに調べてみました
私の大好きな老子の残したとされる書物にも
この言葉があるんですよね
ただ、老子は
その言葉の前後に数行の文を書いていて
それを私なりに訳すと
「名誉や見栄やお金と、自分自身じゃ、どっちが大事?
自分の魂をおろそかにして
この世の欲だけに走ってしまったら
自分の魂を無駄にすり減らしちゃうよ
自分の魂の求めるモノを充足させてて
目先の欲とかは適度にしてる人は
いつも、幸せなんだよ」
ってことを言ってて
つまりは
只々、節制して慎ましやかに現状に満足しろって
言ってるわけじゃなくて
その前提として
自分の魂の求めてる本当のところを
知る必要性を言ってるんじゃないかなーと
思ったんです
例えば、デザイナーになりたい人だったら
オシャレにいっぱいお金使ってもいいし
音楽をやってく人なら、CDやら楽器やらお金使って
占いする人やったら、本やら講座に投資して
でも、そうしたら、他の事には
そんなに、贅沢したい欲が無くなると思うんだけど
どうなんだろ?
私の解釈では
『吾唯足知』の意味は
『私が本当の意味で充足出来る事は何かを知る事』
だと思うのだけど
そしたら、きっと、幸せだよ、いつでも幸せ
人から見て、どう思われようとね
ってことかなーと
老子の思想から言うと、そういう感じかなーと
まあ、禅寺で悟りを開こうとする人達は
只々、シンプルになる必要があるから
シンプルライフ、シンプル思考が必要だけど
普通の人は、社会の中で様々な人や出来事の中で
悟りを開いていくのだし
あ、長々語ってしまった
そんなことを考えていた私なのでした