Alberto Radius (アルベルト・ラディウス) 1 of 2 [~ Formula 3 | pulsar21

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1972年 Alberto Radius 1st 「Radius」

イタリア・カンタウトーレの大御所だった Lucio Battisti(ルーチョ・バッティスティ)
。1971年に発売された3rd Album「Amore e non amore(8月7日午後)」に PFM(プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ) の前身バンドである I Quelli(クエッリ) の4人と Alberto Radius がバックバンドで参加していた。


Alberto Radiusは1967~69年、ギター・ボーカルとしてI Quelliに参加した事があった。I Quelliは1枚アルバムを出しただけで、良い評価は得られず、メンバーはスタジオワークで食いつないでいたらしい。そんな中、Alberto Radiusは1969年に結成された Formula 3(フォルムラ・トレ) のメンバーとなる為、I Quelliを脱退する。しかし「Amore e non amore(8月7日午後)」にはバックバンドの一人として参加していた。


「Amore e non amore(8月7日午後)」のレコーディング時に分裂・崩壊の危機にあったI Quelliと言われている。確かにこの時I Quelliに在籍していたギター・ボーカルのPino Favaloroが抜けて、ヴァイオリン・フルート・ボーカルのMauro Pagani (マウロ・パガーニ)を迎えた5人でPFMは結成されている。という事は、Pino Favaloroだけが除け者扱いか。さらにこの分裂・再編により、PFMとFormula 3が生まれた、という人もいる・・・おいおい、Formula 3は2年前の1969年結成だっていうのに・・・。


Lucio Battistiは1966年にデビューし、1969年には既に大きな成功を手にしていた。1998年に55歳の若さで亡くなるまで、Lucio Battistiはカンタウトーレのスーパースターでした。
1972年に発売された5枚目のアルバム「人間への夢」1曲目 I Giardini di Marzo。この展開が初期Battisti特徴の一つだと思います。シングルカットされました。


I Giardini di Marzoの後に出た曲が IL Mio Canto Libero 。イタリア語だけでなく、英語、スペイン語、ドイツ語、フランス語でも録音されました。
イタリアのヒットチャートで、1971年6月頭~9月頭まで3ヶ月以上トップ1を守ったのが Pensieri e Parole  です。


ここで、主要メンバーの年齢整理。

  1943年生まれ Alberto Radius(アルベルト・ラディウス) ギター・ボーカル
  1943年生まれ Lucio Battisti(ルーチョ・バッティスティ) ギター・ピアノ・ボーカル
  1946年生まれ Franz Di Cioccio(フランツ・ディ・チョッチョ) ドラムス・ヴォーカル
  1947年生まれ Franco Mussida(フランコ・ムッシーダ) ギター
     下の2人はI Quelliのメンバーであり、PFMオリジナルメンバー


RadiusとBattistiは同じ歳。仲が良かったのではないか。1971年「Amore e non amore(8月7日午後)」のレコーディング時も
Battisti 「自分の3枚目アルバム、クエッリのメンバーに手伝ってもらうんだけど、アルベルトも手伝ってよ~」
Radius 「自分のグループ(Formula 3)で忙しいんだよ。でもルーチョの頼みとあれば・・・しょうがねぇなぁ~」
という会話があったのか、なかったのか・・・。


1990年代になってFormula 3が再結成された時も、2人で曲を共有し合っていた。
Una Donna per Amico  (1978年Battisti12枚目のアルバム「女友達」から、タイトル曲)
Battisti版
Formula 3版
もうBattistiに初期のイメージはなくなっていた。


そして1972年には、この曲さえも共有していた。
Sognando e risognando(夢のまた夢)  (5枚目のアルバム「人間への夢」から。)
(もちろんこれは、Formula 3が同年に出した3枚目のアルバムタイトル曲。)
Battisti版
Formula 3 シングルVer版 (0:40辺りに微妙な画像が・・・)


Formula 3は、 Alberto Radius に、当時イタリア3大グループと呼ばれていたI Camaleonti(イ・カマオンティ)からキーボードの Gabriele Lorenzi (ガブリエーレ・ロレンツォ)、イケ面のティーン・エイジャー(1950年生まれという事だから、当時19歳)ドラマー・ヴォーカルの Tony Cicco (トニー・チッコ)の3人で結成された。デビューアルバムは1970年に「Dies Irae」が発売された。タイトル曲は名曲だと言われていますがとて~も重い曲。2枚目のシングルになったエンディングの Sole giallo, sole nero、とてもポップでノリのよい曲。

3人のメンバー全員の姿がよくわかる動画です。左端がAlberto Radiusという事になります。

70年代のFormula 3は、全部で4枚のアルバムを出しています。1~2枚目のプロデュースはLucio Battisti。3枚目の「Sognando e risognando(夢のまた夢)」では大曲志向に走り、全4曲のうち半分を、Formula 3がプロデュースしています。その曲の1部です。


3枚目のこのアルバムは、一般的にFormula 3の最高傑作と言われています。が、大作は分不相応だとも言われています。前後のアルバムを聴くとなんとなくわかるような気がします。そしてボーカルは高音のトニー・チッコばかり。これでアルベルト・ラディウスはストレス発散の為に(?)1stソロアルバムをこの時期に発売しています。後のIL VOLOメンバー、Formula 3のメンバー、イタリアを代表するジャズ・ロック・バンドだった AREA(アレア) を従えて、一大セッションアルバムを作っています。付き合ってくれたAREAに敬意を表してか、曲名が「AREA」です。


Formula 3サウンドとは全く関係ない音作りとなっています。後に発売される何枚かのアルベルト・ラディウス・ソロ・アルバムとも、全く関係ない音作りとなっています。ギターだけは、確かに本人ですが・・・。

Formula 3ではボーカルを取る機会よりもギターを弾きまくっているイメージが強いAlberto Radius。ラストシングルとなる「Rapsodia di Radius」4枚目アルバムの1曲目ともなっています。次のスーパーグループ、IL VOLOに繋がる名曲です。

ここでイケ面のドラマー 、トニー・チッコはカンタウトーレへの道を歩み始め、芸名「チコ」としてそれなりの成功を収めました。残る2人のアルベルト・ラディウスとガブリエーレ・ロレンツォは、 IL VOLO(イル・ボーロ) 結成へと動きます。