みちのくの しのぶもぢずり | お客さん、終点です(旅日記、たこじぞう)

お客さん、終点です(旅日記、たこじぞう)

よく居眠りをして寝過ごしてしまう旅人の日記。みなさんが旅に出るきっかけになればと思います。(旧題名のたこじぞうは最寄りの駅の名前)

「ここをたらし込んだんやね」

「無造作なのがええね。楽しんで描いてはる。」

 

絵を見ていた2人のおばちゃんが、自身も墨絵をやっているらしく、その人達の話を聞くともなく聞いている。実際に描いている人の話は面白い。

最初は、襖に殴り書きしたとしか思わなかった絵が、よく見ているうちに力強い何かに見えてくる。

 

京都の渉成園にある園林堂(おんりんどう)で、棟方志功の襖絵が特別公開されていると聞きやってきた。

 

円相というのだろうか、大きな丸を描いた襖絵は、十津川の玉置神社の大杉にインスピレーションを受けて描いたものだそうだ。

墨の濃淡で表した花があり、これは係りの人によると、東本願寺の寺紋にもなっているボタンなのだそうだ。

 

 

渉成園は東本願寺の庭園で、徳川家光により宣如上人に寄進された場所に、石川丈山により作庭された。

蘆庵という面白い形をした茶室や、池には回棹廊という杮葺きの屋根を持った橋が架かっている。

 

 

先ほどの園林堂の隣にある、ろう風亭(ろうは門構えに良、ひろびろとしているの意味)には、石川丈山による、ろう風亭の、徳川慶喜による渉成園の扁額がかかっている。

慶喜はここ渉成園を好んでよく訪れていたそうだ。明治に入ってからは明治天皇が休憩をしたり、ニコライ2世も来日の際にここに立ち寄っている。

 

 

 

また、池の中の島には源融(みなもとのとおる)の供養塔といわれる石塔が立っている。源融は嵯峨天皇の皇子で、光源氏のモデルの一人となった人物だと言われている。

源融は陸奥出羽按察使を任官した。現在、渉成園があるあたりに陸奥塩竈の風景を模した庭園を造らせ、難波津から海水を汲んで京に運ばせ塩焼きを楽しんだという話もある。

 

当時、按察使は代理人を派遣することが多く、実際に源融が陸奥に赴任していたどうか、塩竈を訪れていたかどうかもわからない。

ただ、陸奥に赴任していなかったとしても、このようなエピソードが伝わっているということは、彼にとって、みちのくに行くことは都落ちではなくこの鄙の地に行ってみたいという思いがあったのだろう。

 

この庭は平安から、江戸、明治、昭和と歴史が何層にも積み重なった場所で面白い。