我が家はクリスチャンホームである。


二代前までは法華宗の檀家であり、寺の境内にはそれはそれは立派な墓があるのだが、

親の代からは英国国教会の教派の教会に属している。


生後6ヶ月で、首がやっと座った頃、なんの抵抗もできない私は、その教会でクリスマスに洗礼を授かった。


小さい頃は親に連れられて礼拝に出席していたが、どうにも教会という場所が好きになれなかった。


中学生になると反抗期ということも重なり、さらに学校で基本的人格の「信教の自由」を学んだことで、理論的にもキリスト教嫌いが完成したのである。


礼拝ではイエスキリストの最後の晩餐を模して、パンとぶどう酒をいただくのだが、そのためには「堅信」というものを受けねばならない。


大人は洗礼を受けるのと同時に堅信礼を受けることがよくあるが、

私のように乳幼児が洗礼を受けた場合は、中学生になる頃に教会の牧師から勧められて何回か聖書の勉強をしたうえで堅信を受けることになる。


私は当然ながら頑なにこれを拒絶した。


しかし、不思議なものである。

私は高校2年の春に堅信を受け、熱心に教会に通い始めたのである。


きっかけは、高校の倫理社会の教科書であった。


イエスキリストが説いたのは「隣人愛」であるが、それを教科書で知らなければならないほど、我が家はクリスチャンホームらしくなかった。


自分自身がクリスチャンであることの意味を知りたくなったのか。

反抗ばかりしていないで、ある思想の懐に染まってみるのもよかろうと思ったのだろうか。


高校1年のおそらく終わり頃、教会の牧師から家に一本の電話がかかってきた。

「息子さんが堅信を受けたいと教会にきています」

何も聞いていなかった親はびっくりした。


おそらく学校の帰りに、家とは反対方向の教会にわざわざ向かい、一人で教会の門をくぐったのである。


いろいろな出来事を、どうでもいいレベルまで細かく覚えている私だが、

これほどセンセーショナルな出来事をまったく覚えていないのである。


これが神の導きというものであろうか…。




いやいや、そんなたいそうなことではないことは、今の私を知る人ならばわかるであろう。 


なんだかんだで、私の教会生活が始まったのであった。