小学校の6年間お世話になった稲毛の社宅を離れ,

中学1年生からは若干広めの船橋の社宅に移り住んでいた。

 

その社宅は4階建てで1室3Kの広さ。

ここで私は初めて自分の部屋を与えられた。

 

高台にあったその社宅からは,西側の低地を挟んで隣の台地が見えた。

その上に,どうにも気になる建造物があった。

 

それは巨大な鉄塔であった。

200mはあろうかと思われる鉄塔は,全部で6基並んでおり,

航空障害灯が夜空に赤い光を静かに明滅させている。

 

当時、私は大きなものが苦手であり,巨木の下はなるべく目を上げないように通っていた。

何か異様な感じがするし,見下ろされる感じが不気味で怖かったのである。

 

これがその鉄塔群の、在りし日の写真である。

なぜ6基も並んでいるのか、用途は何なのか。

 

私が船橋に移り住んだころ、これらの鉄塔はちょうど解体中であり、

私の疑問に応えることなく,まもなく6基とも姿を消していった。

 

その正体が分かったのは、それから30年ほど経ったときである。

インターネットが普及し始め、自分が住んでいた地をストリートビューで訪ねて楽しんでいた。

 

そういえば,あの鉄塔は何だったのだろうと,Googleマップを見てみると,

その付近に完全な円形の地形が表れてきた。

 

これはいったい…と航空写真に切り替えると、

「行田公園」で間違いない。

 

そこで,この公園のことを調べてみたら驚いた。

 

この円形の土地は,旧日本海軍の無線電信所の跡であり,

あの太平洋戦争の火ぶたを切った,真珠湾攻撃を命じた暗号文

「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を

ハワイ北方に控える空母艦隊に打電した場所だったのである。

 

あの鉄塔群は超短波の信号を送るための電波塔だったのだ。

 

この公園を実際に訪ねたのは,2010年の11月だった。

公園の入り口に「船橋無線塔記念碑」があり,

碑文には次のように記されていた。

 

「ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。

大正4年(1915年)に船橋海軍無線電信所が創設された。

大正5年にはハワイ中継でアメリカのウィルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。

広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書き込まれた。

大正12年(1923年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。

昭和16年(1941年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、

太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一ニ〇八」の電波もここから出た。

船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971年)5月解体され栄光の歴史を閉じた。」

 

かつてこの国にも悲しい戦争があった。

その事実を後世に伝える,貴重なモニュメント。

鉄塔の足場の跡の,丸い遊び場で戯れる親子の姿を眺めつつ,

できれば,鉄塔の一部だけでも残しておいて欲しかった…

そんな気もするのであった。