昭和45年当時、お笑いコンビといったら、欽ちゃんジロちゃんのコント55号だった。
Sくんと私はそれに倣って「コント0号」を名乗り、お笑いコンビをつくっていた。
登校するなり、僕らは教室裏のベランダでネタ合わせに入る。
ネタはだいたいSくんがつくり、彼がボケ役、私がツッコミ役である。
担任が朝の職員会議をやっている隙に教壇に上がり、
クラスメイトの前で漫才を一席やらかすのである。
「またおまえたちか〜!早く席につけ〜!」
と担任に叱られることは茶飯事であったが、
うけるのがくせになってなかなかやめられなかった。
そのコンビも解消して、Sくんは勉強に専念するのだという。
一人になった私は、ひたすらボールを追いかけ、レギュラー取りに専念するしかなかった。
そして2月1日、中学入試の日。
Sくんは見事にK成中に合格!
私はそのまま附属中に進むことになった。
サッカーの方はどうなったのかいうと、
Sくんはちゃんとチームに戻り、背番号こそ最後の25番だったが、
しっかりレギュラーを勝ち取っていたのである(^^;;。
Sくんは、その後、K成高校からT大法学部に進み、大蔵省にトップ入閣。
防衛省、総理大臣の秘書官を経て、内閣府の審議官にまで上りつめる。
ネットの情報によると、今は退官して、かの有名企業のR天の取締役になっているようだ。
いったいどこでこんなに差がついたのか?
雲泥の差というが、この場合は月とスッポンが相応しい。
思い返すたびに、小6のあの日を思い浮かべている。
人間の大きさの違い。
どんなに頑張っても追いつけない存在っていうものがある。
それでも私は私なりに、私らしく人生を送ってきた。
等身大の成長とよくいうが、その八分目あたりがちょうどいいのかもしれないと、
皺が増えてきた自分の手を見ながら思うこの頃である。
私の誕生日会にて…左端がSくんである