ランチは和食で懐石料理のコースだった。
たいへん美味であったが、それより60年分の会話が弾み、料理の手が進まない。
話題は多岐に渡り、とても書き尽くせるものではない。
ただ一つ、自分には謎だったことがある。
それは、今は駐車場になっている私の出生地に、かつて小屋があり、
そこに老夫婦が住んでいた。
私は「おうらのおじいちゃん、おばあちゃん」と呼び、たいへんかわいがってもらった。
しかし、いったいどういう関係の方だったのか、
それをNさんに聞いてみたかったのである。
Nさんの話によると、建っていた小屋は二軒であり、
右側の家にはNさん一家が住んでいたそうだ。
戦後復興の急造の家で、部屋は一つ、土間とトイレという簡易住宅。
まさに復興住宅である。
やがてNさん一家はそこを離れ、左側の一軒だけが残った。
そこに住んでいたのが、曽祖父すなわち「おうらのおじいちゃん」だったのだ。
それなら、おうらのおばあちゃんは曽祖母だったか…というと、そうではなかったらしい。
曽祖母はすでに亡くなっており、いつのまにか住み込み、曽祖父の世話をしてくれていた、
それが「おうらのおばあちゃん」だったのである。
とてもやさしく、ものしずかで、上品な方だったのを覚えている。
曽祖父亡きあとは、これもいつのまにかいなくなっていたとのこと。
いったいどこにいき、どのような最期を迎えられたのか…。
悲しく寂しい想いに駆られたが、戦後はそのようなことがよくあったのだろう。
沼津駅に戻ると15時を過ぎていた。
「また会いましょう!それまでお元気で!」
と固く握手を交わし、別れを告げる。
懐かしい再会の喜びと同時に、日本の大変だった時代と、
先祖の人生を思う、貴重な時間であった。