父は新しい老人ホームの生活に、徐々に慣れていくのではないかと思ったが、
そう甘くはなかったようだ。
「ここはどこだ」「お前は誰に雇われているんだ」と、職員に食ってかかり、
「金が全然なくなっている」「通帳も現金も何もない」「警察に行くぞ!」と、
脅迫まがいのことをいっているようだ。
その度に、鎮静効果のある薬を飲ませてもらっているようだが、
あまり強い薬を飲ませるのは、このホームの方針に合わないらしい。
父の話を聞き、自分の部屋に入るまで、じっくり付き合ってくださっている。
「傾聴する」という言葉が、ネットのケア情報によく現れる。
傾聴は、アドバイスなど全くせず、 ひたすら相手の話を聞く。
カウンセリングの基本的な姿勢である。
私は、大学でカウンセリングを専攻していたが、自分の父となると、全く傾聴などできないのだった。
父の馬鹿げた話を、真剣に聞いてくださっている。
そのことだけで、ありがたい。
ある日父は、
「家内に死なれて、何にも出来なくなった」
「仕事ばかりしていて申し訳なかった」と言ったそうだ。
私との会話では、絶対に出てこなかったフレーズである。
母が聞いたら、感極まったに違いない。
しかし、その翌日には、 「金がない」「盗まれたに違いない」「警察に行くぞ!」が始まる。
仕事とはいえ、職員の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。