新興宗教の真の姿を、あの世に行って観ておどろく人はたくさん存在するように感じます。
わたしはその真の姿について…
死後の行先1・2・3など、スピリチュアル再考というテーマ記事で何度も書いてきました。
団体の代表者や世の霊能者も含めて、脳裏で観える顔つきが『人間』でない人はたくさんいます。
なぜならば、それは霊的(見えない世界・脳裏の世界でも)に見れば、苦しみを抱えている人々が差し出した金銭や品物はその人の糧としてなりえるものであり『糧(食料)=消化され、体の一部になりうるもの=血と肉』と転じるからです。
各人の中心に座っている御柱ともいえる存在から離れてしまう信仰や霊的な行動ほど、その『血と肉』という性質が大きくその集団を動かすことになります。
それらの金品で飲み食いしてきた御人は、同種族を喰らうということになり、その内に坐(いま)します存在を観る眼(まなこ)が穢れていき、気が付くことが困難になっていく。
最初の『喰』で『蜀』され、心身が『蝕』されていく。
各人に宿る存在の本意ではない霊的な物事で金品を受け取る機会をもつことは恐ろしいことなのです。
あの世でその行いと、自身の変化した姿に気が付いても、『無知だった』では自身が許さないでしょう。
その自身とは赤子として肉体を持つときの自身であり、その時の自身は『命』を預かり受け、自身と生きて(息をして)くれることをよく分かっていたはずだからです。
『命』はあまりにも各人に重なりすぎて、目で見ることはできません。
そして誰が頼まなくとも、息をして、血としてもめぐり各人と共に生きています。
それはだれもが求める平安とも言います。
