新興宗教において、「(親の信仰により)泣く子供がいるかいないか」がその存在意義の善悪の判断材料になります。
始めは善の意志により始まったものでも、このような子供が存在するようになれば、魂は巣食われ、掬われてしまうのです。
そのような宗教団体が語る神仏はもう、地面の下の存在にと置き換わっていく。
肉を纏った生きる人の目には、美しく清浄な神仏に見えたとしても、あの世の視点、心で観た本質は真逆のものなのです。
純粋な子供を犠牲にして捧げた時間や金品が、教団の維持のために使われ始めると、その神仏に変容が現れだす。
神仏の発光が清浄なものではなくなり、夜の繁華街のネオンのような人を惹きつけるための発光を始める。
その光は神仏の足元を隠す。
神仏から醸し出される香りは原初の芳しいものではなくなり、人工合成された香料のように多くの無知の人の鼻と目の奥にある本質を観る心眼を狂わせる。
では、なぜ足元が隠れるのか。
そこには生きた人間だった一部(肉や血)が散乱しているからである。
信者が捧げた金品はその信者家族の生きる糧という見方もできる。
そこに、無理な捻出、とくに純粋な子供を苦しめて捻出した金品。それは変容してしまった神仏だったモノにとってはとても美味しい食糧になるという。
生命力があり、また穢れない子供の糧となるものだったのだから、糧が行き着く先の子供の身体の一部、また生命力としてそのモノは喰らっていく。
それはそのモノにとってとても美味しいのだそう。
子供の生命力を喰らったそれは、迷いを抱えた人間にとって、とても美しく若々しい姿を魅せる。
自身の食糧のために。
心眼ではそのモノの後ろの正面は地面の下(地獄界)のそれで、デビルマンに出てくる悪魔たちと似ている。
宗教というものが生まれたころより離れてしまった人間と命の距離。それにより人類の阿鼻叫喚は始まり、それを止めるための意志を持って生まれた人間も慣習という名の鎖に縛られてしまい今に来ている。
分け御霊ともいえる命を人間の魂に預けた天地の父と母が、もう黙ってはいない。
そう私個人は感じています。