命の有り難きことを隠すような行いをするのは巫(かんなぎ)では決してありません。


知らずにしていても、それはその資格を無くした人です。


今際の際に生まれる時のことを思い出して、自身や沢山の人の眼(まなこ)を曇らせたことに絶句して終わる人もいるでしょう。


行きはよいよいでしたが、実はそれはまさかの下り坂。振り返ると登り坂ではなく、見上げる限りの断崖絶壁。


自身が相手に行ったことを再現し、また同時進行でその相手になり代わり、二者の視点で振り返ります。


これは行った行為によってはとんでもない無限の地獄に入ってしまうのではと考えます。当時の自身の行為やその時の気持ちが許せなくなって、相手の立場で振り返ることをやめられないのです。


ま、おどろしい話はここまでにして、、、


真の神を知る巫とは稲や稲穂のような人物であろうと思います。


稲は自らの名を語らず、前世や生い立ちすら語りません。


風に身を任せるその音は祓いそのもので、稲穂には天地(あめつち)の息が凝縮されて光っています。


だけども、稲穂はただ頭を垂れ、なにも主張しない。


ただ天地の息から生まれ、生かされていることを感じているのかも知れません。