ちなみに程度の話。。

相田みつお美術館は 息子さんが館長をされていて

いたるところに父の思い出がつづられている。。


父親をこのように冷静に分析できる人は

そうそういないだろうと思う。。


さまざまに批評される立場に居る芸術家を父に持つと

やはりこういう風に客観的に分析して見えてくるのかなと思う。。


父親云々はさておき


息子さんの思い出やコメントを見ると、

みつお氏の仏に対する深い思いをうかがい知ることができる。。



彼の仏への思いを知るにつけ思ったことがある。。



相田みつおは 天才かも知れないけれど“人”だった。。ということ。。


日によって気分も変わるし 言うことも違う。。

矛盾する思いや言葉は 人々が受け入れ易い形に示し作品として世に知らしめられる。。



その時々に変化する作品は まるで“真理”のように人に知らされる。。


受け取った人の中には その一つを“真理”と抱えて生きていくこともあるだろう。。


その逆の“真理”を抱えて生きていく人がいることなど知らないで。。





欲望を許すかと思えば諭すこともあり戒めることもある。。

逆境にも突き進めと言うかと思えば泣き伏すことも許す。。

恋愛に臆病になったり 恋愛に浸りきったり。。

揺れ動く感情の様々を 彼の言葉はつぶさに示す。。

何もかもが共感できるし 何もかもが心に沁みる。。

彼は 自分が“人“であり 矛盾する感情を持っていることを強く感じていて

他の誰もが同じように悩んでいることを知っていて


だから その時々の感情を描かずにおれなかったのだと思う。。

そう思う人間のために 自分のために。。と。。




「ただいるだけで」  は



彼のアトリエで彼の後ろに居た“ほとけさま” に向けた

“人”だった彼の深い深いつぶやきだったのだと思う。。







陽が傾いて秋風が少し冷たい。。


美術館を出て東京駅に向ういながら思う。。







私は彼のような才能は無く

時々に変わる自分の感情さえよく理解できていない。。

自分の考えがまとまっていないから

人に何かを諭したりすることはとてもできず

人から学ぶばかりで生きてきた。。。



けれど これだけ多くの人に共感や感動や感嘆や

気づきや悟りさえ感じさせる彼のさまざまを見て思った。。




そういう“人”に 私はなりたい。。





と。。






                                 puku




東京駅より歩いて10分。。

緑とガラスの芸術作品 東京国際フォーラム に向う。。


建物の美しさというよりも

その場所に調和した空間の居心地のよさというべきか。。


都会のオアシスたるや かくあらんと思うほど

私の思う都会の美術館のイメージにぴったりだった。。


ウィークディの昼間。。

会社員が思い思いに屋外ランチを楽しむ整備された公園を通り抜け

地下へ1つ階段を下りると 思いのほか広々とした空間が広がる。。


展示スペースにしても相当広い間の少し奥。

ちょうど公園の真下ぐらいに

落ち着いた間口の美術館がある。。

相田みつお 美術館 (東京千代田区

美術館というのは 多分全体の構成を知らない方が楽しい


次の部屋には何があるんだろうか

まだ 次の部屋があったのか

あぁ こういう狙いがあったのかetc

展の想いが伝わってきて

それを理解し 感じることができたと思うだけで

見終わった後の満足感が違う気がする。。


一番目の展示は 井戸。。。

井戸の奥(水面にあたる面)に文字を描く画像が浮かび上がる

字は書かれたものより描かれる過程の方が面白い。。



何が描かれるのかはわからない。。

流れる映像を見るだけで

文字が絵になり声になる。。

“夢” 1字が描かれるさまを見るだけで

この美術館の想いが伝わってくる気がする。。


文字で何かを伝えようとする彼の想いを

ここでは展示や言葉や趣向を凝らして伝えようとする。。



何か新しい事象に臨んだときに

過去の事象とその時にとった考えをたどることはとても役立つ。。


ただし そこから抜け出せないという事態に陥らなければの話。。。



私は多分にそこから抜け出せないことが多くて

何か機会があって そこに支障がでなければ ずっとその考えに寄りかかる。。



私の考えを形成した “郷里で過ごした18年間”

その年月のあと 私の選んだ節目が一つ。。


節目までに作られた私は もはや私の中の基本となっている。。

そこに全てを求めようとするわけではない。。

けれど 今の私を細かく砕いてみると

一つ一つの欠片は節目までの私でしかないような気がする。。



あぁ 最近昔話が多くなった。

年をとったのかもしれないな。。まぁいい。。

何せ昔話から。。



小さい頃からわたしの字はきたない読みにくい字だった。。


先生からそのことを指摘される度に

私はいわれの無い非難を受けた子供のようにかぶりを振ってこう言った。。



だって 読めるでしょう?( ̄^ ̄)



開き直った可愛げのない子供だ。。

いまさらながら反省する。。東野先生 あなたは正しかった。。

(小学校1年生のときの担任の先生)



そんな風で書道の授業が一週間の中で一番憂鬱だった私は

今も書の上手下手なんてものには 全く興味がない


偉い先生の書いたご立派な文字より 

パソコンの24ポイントの正楷書体の文字の方が美しいとさえ思う。。



「そういう自己嫌悪から生まれた今の私から一歩前進」

というのが今回のテーマです♪


さて♪ 恒例(いつから?)の東京都内美術館紀行。。♪

さて、毎月恒例の東京出張に行ってきた。

缶詰にさせられる会議から開放されたあと 

週末は東京見物を楽しんだ♪



前日まで(缶詰になっていた会議中)の秋晴れが

”うそ”のように 朝から雨。。。

雨にもまけず 事故で止まるJRにもまけず 東京は上野へ。。


しかし、今更ながら私の行くところ行くところよく雨がふるもんだ。




東京国立博物館


東京は上野を出ると目の前

大きな公園が構えている。

上野といえば動物園は遥か昔。。西郷さんはもっと昔。。


芸術の森 上野は東京国立博物館へ行った。。




実は陶器についてはあまり詳しくない。。

いや。。絵画も詳しいわけではないけれど・・


昔々 ・・・小学生の頃か。。

そんな昔じゃないことにしておく。。


昔 楽焼き大会という行事が我が母校にはあった。。

土をこねて 色を塗って焼く。。

陶芸の授業みたいなものだったけれど


私の作った器は 一度として綺麗に完成しなかった。。

何度やっても必ず釜から出すと割れていた。。


土を練る時点で手を抜いていたのが原因のようだったけれど

当時の私にはそのあたりがまったく分からなかった。。

釜から出して地面に並べる。。

ひび割れた器をもらうのは 少し辛かった。

火に入れたあとが焼き物の出来を決める。。

という思いが強く残ったそんなこんなが原因か 

陶磁器なるものについては


綺麗な器は綺麗だと素直に思うのだけれど

絵画や他の芸術品と呼ばれるものと違って


作者に思いを馳せるとか 形や色や造りを面白いと思って

興味を持って勉強することはなかった。。

器は 創造性うんぬんではなくて 

運と偶然が生み出すものだと思っていた。。





けれど 今回東京国立博物館で開催されていた

 伊万里・京焼き展 を見て少し思った。。

個人の試行錯誤によって生み出された様々の陶磁器の出来は

ある種偶然に支配されるとしても

時代時代における様々の試行錯誤の歴史の中で

一つ一つの器を見ると

 

そこには 偶然では片付けられない様々があるのかもしれない。

むしろそこには確かな創造性があるような気がする。。

ひいては文化の成熟さえも伺える気がした。。

  

陶磁器に創造性を見出すなら

多分歴史を知らなくてはならない。。

そんなことが少し分かった。。



さて 東京日記その2です。。


東京国立博物館。。

以下には印象に残った2つをご紹介♪


染付吹墨月兎図皿(左上)

tukimiusagi




兔が月を見つめるようになったのは いつからなんだろうか。。

そのことがこうもしっくりくるのは 何故だろうか。。

月を見上げると締め付けられるように思うのは 何故だろうか。。

そんな思いに浸るとき 時間を忘れるのは何故だろうか。。



こういう器に惹かれるのは

歴史うんぬんでなくて 私の趣味の問題。。



蒼い蒼い月を見上げて 旅先の路上で呆けていた昨夜を思い出す。。

今も昔も月を見上げて 冷たい空気と蒼い光に魅入られるのは

私だけではなく万人の根元だと確認した。。







黒楽銀彩猫手焙

ginhasankasurutokurokunarundesutte


先述した楽焼き。。


先生の指示は “好きなものを作れ”だった。



私は工夫や独創性のかけらもないから

単純に茶碗や湯飲みを作ったけれど



周りの友人の中には 犬や猫の置物を作った人もいた。。



皆が器を作る中で そうやって別の物を創造する。。

私にはそういう発想は出来なかった。。



器のように実用性を重視したものと

観賞に用されるものとして作られたもの。。


もともと 一つの基準で評価できるものかどうかよくわからないけれど


先生が 学校の来客用入り口に飾る作品として選んだのは

いつも後者のものだった。。


鑑賞に堪える芸術作品は

いつもではないにせよ 多くは独創性に富んでいる


枠を意識はしても気にしない

そういうことができるのがうらやましかった。。


一連の名器を鑑賞して

最後にこの思案顔の猫に出会ったとき。。

ふと そんなことを思い出した。。


彼を創り出した匠は

彼に何を言わせたいのだろうか。。




年経て毛並みが黒くなっても

人の言葉を借りれば”おもしろい”顔をして

物言いた気に佇む様子に後ろ髪引かれる気がした。。



私に想像もつかないようなことを

匠と彼猫は考えているのかもしれない。。