今回は
邪馬台国の女王 卑弥呼の謎について
ぷぅーこなりの
解釈をまとめてみました
卑弥呼は誰だったのか
それは古代史上
多くの謎のなかでも最大の難問
まず
卑弥呼は
架空の人物だとおっしゃる説もありますが
ぷぅーこは
実在していたと考ています
しかも
複数説が正しいのではないかと
考えている
日本の始まりは
五帝最後の虞瞬につかえた
中国の夏王朝 禹王から始まった
根拠はありませんが
そんなふうに感じています
そして
初代 卑弥呼は縄文時代後期には
登場していたのではと
ぷぅーこは
初代 卑弥呼と
神武天皇とは直接的な関係は
いっさいなかったと思っています
しかし
初代 卑弥呼の時代に成立した
政治体制や文化が
のちの天皇制や古代日本の政治構造に
すごい影響を与えたのだと
思っている
そして
その頂天には
どうも禹王がでてくる
一説には
邪馬台国の人々が
太伯の子孫だと名乗って
助けを求めたって話があります
そのため
初代 卑弥呼は
この太伯の子孫にあたるとも
言われています
太伯はまたの名を
虞仲
禹王は
前皇帝が位を
息子に世襲せず
一族以外の他人に譲る
禅譲で
有名な王様でした
しかし、死に際
前の王に繋がりのある益に
その位を返そうと
遺言を残したのだが
益は3年間の禹王の喪があけると
あっさり
禹王の息子・啓に帝位を譲って
隠棲してしまいます
啓が益を殺して
帝位を奪う説もあるのだが
もし殺していたら
その後
邪馬台国のものたちが
太伯の子孫を名乗って
助けを求めて行くなんてことは
不可能なのでは…
親の敵にすがるなんてね
益は
またの名を大費と呼び
黄帝の孫のさらに孫娘である
女脩が産みました
その大費には2人の息子
大廉と若木がいました
禹王の時代
立派な功績を残し
嬴の名を賜わったのが兄の大廉
西方の秦国を治めた
始皇帝 嬴政の流れに
なっていきます
そして東方・徐州を治めたのが
弟の若木
徐市や徐福の流れというわけです
みんながよく知る
秦の31代始皇帝・嬴政と
不老不死の仙薬を求めて日本へ来た徐福は
同族同士だったってことに
3代目 卑弥呼は
5代 孝昭天皇の時代
4代目 卑弥呼は
6代 考安天皇の時代
5代目 卑弥呼は
7代 孝霊天皇の時代
6代目 卑弥呼は
9代 開化天皇の時代
7代目 卑弥呼は
15代 応神天皇の時代に
日本には
卑弥呼だけではなく
ヤマトタケルも
たくさんいらっしゃる
これが
のちにゴチャゴチャといろんな説が
できてしまう要因であったのだろうけど
それらは全て
16代 仁徳天皇の時代に
廃止される
卑弥呼は祭祀王
いまでも使われている
天皇陛下
という言葉からもわかるように
天皇は
宮殿の階段の下にいる位の人物
だったのです
階段の上には
常に祭祀王がおられ
扱いは天皇よりも
ずっとずっと上だったとか
もし
卑弥呼の母親が
太伯の流れのものだとしたら
徐市より
とうぜん身分は上で
敬われていた可能性があります
その子供が
ズバ抜けて頭が賢かったのなら
政治にクチを出してきても
おかしくはない
政治のことを
まつりごととも言うように
17〜18世紀頃に
市民革命がおこったことにより
卑弥呼の時代に行っていた
祭政一到というものがなくなり
政教分離原則が
確立されるようになった
真実なんか
全然わかりません
だけど
卑弥呼は複数いて
初代は奈良にいたんだって
そんなふうに
ぷぅーこは思っています
歴史って
わからないから
自分好みに染めることも可能だし
ほんと
面白いですよね