何気に本のタイトルっぽくしてみました(爆)
昨日ブログを書き終えて出勤して、電車の中でふと思ったこと。
これは教えられたことなのかもしれないですけど。
どうしても父が「ダンス」という言葉を言ったのが解せなくて、最初は、私に「舞を舞え」ということか?などと思ったものですが、どっちみち舞など舞えぬし。ずっと悶々としていました。
どうしてもダンスのダンが、「断」に変換されてしまって、「ダンする」という言葉が浮かんできて、
ああ「ダンスをする」ではなくて「ダンする」だったのかな?!と思い
父は断捨離という言葉も使ったことは無いし(たぶん知らないのではないか)でももし断捨離という言葉を父なりに言うとしたら「断する」という言い方が、無口な父らしくもあり。(余計なことは一切言わない)(酔っ払った時以外)
とりあえず「断捨離をする」というのが一つの答えです。
あともう一つ、頭に浮かんだのが英語の「done」で、こちらは「完了した」「終わった」という意味があるのですが
スラングでは「疲れた」「もうだめだ」みたいな意味もあるそうです。
英語の堪能だった父が、同じく英語を専科にした私に話すとしたら、こっちの方が優勢か・・・と思わなくもないのですが(;・∀・)
doneする・・・断するに通じないこともないですね(・ω・)
どちらの意味にしろ、何か父が現状を克服するためのアイテムをくれた、というのは間違い無いのかなと思うし
亡くなって30年も経つのに、いや、経つからこそ、守護霊、守護神としての役割も担ってくれているのかな、という気もします(・∀・)
それで、そのアイテムがなぜ淡島さまのものだったのだろう・・・ということも気になったのですが
以前このブログでも、ヒルコとアハシマの考察をして、その時に障碍者の兄はヒルコ、第2子で女の私はアハシマだなぁということを書いたりしたのですが
要するに淡島は私なのだ・・・と思いまして。もちろん、淡島様のご神霊と自分を同一視しているわけではなくて
父が言いたかったのは、父が私を大切に思っている、愛している、ということなのだろうと。(今も)
そう感じた要因がありまして。
自分が常々、てそん君や、ガメを愛する、という愛は感じていたとしても、誰かから愛される愛、というものを感じたことはあまりないなぁ・・・と思っているのです。
自分には「愛される」という立場が無いとしても、「愛される」ということは一体どんな感じなのだろう・・・
なんてぼんやり思ったりしているのです。そこには寂しいとか悲しいとかはなくて、「知りたい」「経験してみたい」という気持ちが強いです。
そういえば、確実に私を愛してくれた人、そう感じさせてくれた人が一人おったわ・・・
と思い出させてくれたのが今回の父の登場でした。
母と仲の悪かった自分は、出張が多くて家にあまりいなかった父との僅かな時間のふれあいで
(母が私に嫉妬していたのだろうというのもあり(;´∀`))
たぶん父の愛をすごく感じていたのだろうと思うし、だからこそ父亡き後も過酷とも言える半生を乗り越えることができたのだろうとも思ったり。
なので、父親が娘を愛する、ということは私にとっては当然のことであり、そういう意味で、父親に捨てられた立場のガメには、すごく同情をする、そして父親の分も愛してやらねばという思いに駆られてしまう、という部分もありますね(・_・;)
ガメが父の分け御霊ではないか、と感じる部分もあるのですが、それは一部分だけで
ガメはガメとしての人生を生き、それを父の魂は今も、見守ってくれているのだ、という気もします。
こうして考えてみると、様々なご神霊(祖先の霊も含めて)と共に現在を生きることは
とても味わい深く楽しくもあるなぁと感じています(*´▽`*)
それでは今日はこの辺で~