江戸時代の末期の豪商、杉屋佐助さん。
尾州名古屋で米問屋を営みながら、寺社にたくさん寄進する事で知られています
今まで常夜燈や石仏、供養碑に名号碑など佐助さんのいろいろな寄進物を見てきました。
中には文化財となっているものもあります
今回はそんな佐助さんの寄進物でちょっと珍しい寄進物です。
それはフォロワーさんからの連絡から始まります。
「ヤフオクに佐助さんの寄進物が出品されていますよ!!」
なんとなんと、佐助さんの寄進物がヤフオク(Yahooオークション)に!?
※Yahooオークションより引用・加工
「杉屋佐助 在銘 木彫大黒天像 厨子付 嘉永年」
ほんとに出てた!(笑)
まさか佐助さんの寄進物がオークションに出るとは、想像すらしませんでした
木彫りの大黒様のようです
なんとも良い表情をされています。
きっと著名な彫師に違いない!
うーーん、欲しいゾ!
とりあえず応札しましたが、残念ながら予算の都合で落札はできませんでした
しかし、商品紹介写真は良く撮れているので有難く引用させて頂きます
※このオークションは終了しています。
※Yahooオークションより引用・加工
厨子と台座の底面にはビッシリと書かれています。
※Yahooオークションより引用・加工
厨子の背面。
※Yahooオークションより引用・加工
大黒様の後ろ。
フォロワーさんにもご教示いただきながら、記載されている内容を文字に起こしてみました。
橙:彫刻文字
青:筆文字
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■厨子
[正面扉(内側)]
尾州名古屋
奉納 杉屋佐助
[背面(内側)]
開運大黒天
[背面(外側)]
美濃
上長瀬谷汲山茶所什物
施主 尾州 杉屋佐助
嘉永四年亥十一月吉日
[底面]
辛亥十月十八日群参
洞上沙門般山開眼
菴門繁昌火盗潜消
福徳円満諸縁吉利
萬安千祥如意満足
↓
厨子底面の文字のみAI翻訳(参考程度に)
辛亥の年の10月18日、皆が集まった。
洞上の僧である般山が開眼した。
庵門の繁栄により火事や盗賊が自然と消え去り、
福徳が満ちて円満になり、あらゆる縁が吉利となる。
万事が安泰で、千の祥があり、願いが満たされる。
■大黒天
[裏面]
尾州名古屋 杉屋佐助
開闢老衲
般山開眼
黄金如山満金袋
[台座背面]
福徳円満
[底面]
尾州名古屋大舩町
杉屋佐助寄附主
接待開闢般山老衲
開眼嘉永四辛亥十月吉日□
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注目したポイントは以下の点です。
▼寄進先
「上長瀬谷汲山茶所什物」
この文字から、現在の岐阜県揖斐川町にある谷汲山華厳寺(たにぐみさん けごんじ)の東にあった、上長瀬の茶所という場所が読み取れます。
茶所は、寺の参詣人に茶を供する所。
什物(じゅうもつ)は、代々伝わる宝物のことをいう様です。
↓揖斐川町の地図
※出典:農林水産省Webサイト「農業集落境界の閲覧」
(https://www.machimura.maff.go.jp/shurakudata/rcom_map2/rcom_map.html)
緑部分が現在の上長瀬(農業集落境界)。
住所は揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬ですが、農業集落でいうと上長瀬です。
地図の左端に見えるのが谷汲山華厳寺です。
江戸時代もここが上長瀬であったとすれば、そこへ佐助さんが谷汲巡礼でお世話になった茶所があり、大黒様を寄進したのかもしれません。
大黒天は、飲食を豊かにするという神様でもあるそうです。
茶所にピッタリの贈り物ですね!佐助さんの心配りが見えるようです
▼彫刻と筆の文字
大黒様には、彫刻された文字と、筆の文字の2種類で書かれています。
彫刻と筆の文字はそれぞれ別の人物が書いたものと考えられます。
さらに、彫刻の文字は佐助さんが彫った(彫らせた)もので、筆文字よりも先に刻んだものかと。
というのは、大黒様の背中にある「杉屋佐助」の彫刻部分へ、あとから「尾州名古屋」と筆で付け加えたように見えるからです。
▼筆の文字を書いたのは誰なのか
筆の文字に「接待開闢般山老衲」「洞上沙門般山開眼」とあり、「老衲(ろうのう)」「般山」という漢字が確認できます。
老衲とは、年をとった僧が自身をさしていう語らしい。ということは、これらの文字を書いたご本人ということになります。
「般山」とは、フォロワーさんにもご教示いただき僧の名前と思われ、それらを並べると、般山という名の年をとった僧が、筆で文字を入れ、大黒天の魂を迎え入れられた(開眼)と解釈できます。
大黒様の底面に書かれた、日付の後ろにある文字(というか記号?)。これは、般山さんの花押(署名)か? 般山の"山"をへの字記号にしたようにも見えます。
▼年月の謎
「嘉永四年亥十一月吉日」彫刻
「辛亥十月十八日群参」筆
「嘉永四辛亥十月吉日」筆
日付が異なります。
彫刻は11月、筆文字は10月。
10月に、佐助さんの谷汲山巡礼のご一行が、般山さんの茶所でお世話になり、
その後、お世話になった茶所へ大黒様を寄進したのが11月。
般山さんが筆を入れる際、巡礼の接待を行った日にちを書き入れた...というようなストーリーだと、辻褄は合うかも。
あくまで推測ですが
▼寄進の表現
「施主 尾州 杉屋佐助」彫刻
「奉納 杉屋佐助」筆
「杉屋佐助 寄附主」筆
寄進した佐助さんの表現が3種類。
「施主」「奉納」「寄附主」
これまで見てきた佐助さんの寄進物は「施主」の表現が使われることがほとんどです。
「奉納」の表現は桑名宗社の狛犬にも使用されていますが、「寄附主」の表現はこちらの大黒様が初めてです。
このことからも、やはり彫刻文字は佐助さんが彫った(彫らせた)もの、筆文字は佐助さんではないと考えられます。
▼大船町の佐助さん
「尾州名古屋大舩町」
「大船町」と記載された寄進物にやっと出会えました
『師崎屋諸事記』へ大船町の杉屋佐助さんが載っていたのですが、寄進物にはお目にかかれていませんでした。
「大船町」の文字は般山さんの筆によるものと考えると、佐助さんの意思で書かれたものではないように思えます。
いずれにしても、この時期は大船町の杉屋佐助さんであったことは間違いなさそうです。
▼茶所
こうして見ていくと、茶所を開いたのは般山さんのように思えてきました。
「接待開闢般山老衲」の「接待開闢」という部分も、茶所を開いたというように読めなくもない...。
そしてそこはお寺の境内にある茶所。
そこへ佐助さんが大黒様を寄進したということかも?
そして、もっとも知りたい点は
「茶所の場所」。
どこだろう
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そんな中、フォロワーさんから追加の情報を頂きました!
それは、『名古屋叢書 第20巻 感興漫筆』のp452に関連する記載があるというのです!
早速図書館へ行って該当部分を見てみました。
川舟渡し(渡しのこなたの村はコチボラ村と云)
……中略……
川を越て長瀬村なり、岸上に接待茶所あり、渡しを越て長瀬村、尾張の商家の寄進する物多し。
後これを聞くに、庵主の僧、常に名古屋に出て商家など勧進す、故に名古屋人の寄附物多しと云。
私が付けた青字の部分に注目すると、川の「渡し」があり、岸上に接待茶所、そして長瀬村には尾張の商家の寄進物がたくさんあるというではありませんか!!!
もしかしたら、そこに行けば佐助さんの寄進物があるかもしれない!?
そして「庵主の僧、常に名古屋に出て商家など勧進す」とあるので、庵主の僧(般山さん?)が佐助さんと接触したかもしれません。
ちなみにこの『感興漫筆』は安政5年(1858)のもので、大黒様が寄進された嘉永4年(1851)から7年後に書かれた日記ということになります。
という事で、この日記に出てくる接待茶所は佐助さんが大黒様を贈った茶所の可能性があります。
※GoogleMapより引用・加工
その後も引き続き地図を見て下調べしていると、またまたフォロワーさんから「上長瀬渡船場発見!」の追加情報が!
GoogleMapで見ると確かに渡船場跡がありました!
いつもフォロワーさんの情報収集力には驚かされっぱなしです
さぁこれだけ情報が揃うと、もう気分はワッショイ!ワッショイ!のお祭り状態。
そして、現地へ。
つづく。