今回の杉屋佐助さんは、三重県四日市市の志氐神社(しでじんじゃ)参道にある常夜燈ですニコニコ

 

佐助さんが贈った常夜燈は、前回の境内のほかに東海道沿いの参道入口にもあるというので行ってみました爆  笑

線路を越えてテクテクと南東方面へ350mほど歩いていくとありました!爆  笑

なかなかの大きさです爆  笑

目の前は東海道です。

 

とりあえず四面チェック!

[南東面]

燈献
天下泰平
八幡宮御神前
国家安全

 

[北東面]

尾州 名古屋 杉屋佐助
同  堀江町 米屋長八
濃州 平村 米屋
政右ェ門
 

[北西面]

天保十一年 庚子 正月吉日

往来安全 舟中安全 當所安全
発起 杉屋佐助 米屋長八

※全体写真は上下を合成

 

[南西面]

尾州 名古屋 森田屋藤吉
同 堀江町 松野屋久左エ門
同 奥田町 米屋権七

 

※竿の上部に写っている黒の横線は'キケン'の札を通した紐です。

 

境内にあった常夜燈と同じく天保11年(1840)の正月に建てられました。

6名による共同寄進です。

こちらと比べると、境内の常夜燈は佐助さんのプライベートで建てたような感じがしますニコニコ

 

この常夜燈の前に解説板がありましたので、関連部分を抜粋します。

 

南側の一基は八幡宮御神前、天下泰平、国家安全と刻まれており、元々、八幡神社にあったものが明治41年(1908)に八幡神社が志氐神社に合祀された後に移設されたものです。

天保11年(1840)庚子正月に創建されたもので、発起人は地元の人ではなく、当時の八幡信仰を反映して尾張・美濃の米穀商六人の名がきざまれています。
石灯籠のある場所は、江戸時代には高札場(幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札を掲示した施設)があり村の中心だったところです。

ポイントは2つで、1つは元々は「八幡社」にあった常夜燈である事。確かに「八幡宮御神前」と刻まれています。これは境内にある常夜燈も同じのため、八幡社から移動させられたと考えられます。

2つ目は寄進者6名が米穀商人であることが判明したことです爆  笑

お馴染みの森田屋藤吉さんも松野屋久左衛門さんも米穀商人だったんですね~花火

 

移設元の「八幡社」はそんなに離れていないため、行ってみることにしましたよ!

 

「八幡社」跡は公園となっており、「八幡地蔵堂」と「伊勢国八幡神社」の社名碑がありました。

こちらも東海道沿いにありますニコニコ

 

同じく解説板がありましたので、該当部分を引用します。

 

この地にあった八幡神社は、江戸時代の旅行案内記に「一国一社にして村名も八幡と称し、皇国六十六拝の一つに数えられている古社である」と紹介され、「東西十間、南北五十五間」の広い社地を有する著名な神社だったが、一村一社制により明治四十一年(1908年)に志氐神社に合祀され、旧社地には社名碑だけが残っている。

八幡神社の遺品は、八幡鳥居様式の鳥居が志氐神社東口に、石灯籠が東海道沿いの志氐神社一の鳥居脇に移設されて残されている。

一村一社制」を調べてみると、神社を統廃合によって数を減らし、経費を集中させることで神社の継続的経営を確立させることを目的としたらしい。

また、地方公共団体から神社に公費を出すようにするため、財政負担にならないよう減らす必要があったという。

それでも公費負担を渋っていた地方公共団体を認めさせるために「一村一社」の基準が当てはめられることとなったそうです。

結果、大正3年(1914)までに約20万社あった神社のうち7万社が取り壊され、特に三重県は積極的に取り組んだためか約9割が失われたというえーん

 

この八幡神社も、その一つです。

 

本来なら廃棄されてしまいそうな常夜灯が、こうやって別の神社に移してもらって残されているのはありがたいですね爆  笑

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!