二、途中の風景・・・かな
十時三十分。智鳥の所有する2DKには、不似合いなほど大きな古時計があくびをした。
カッチカッチと響く振り子の呟きに、グラスの氷が、カラン、と涼やかな音で応える。
現在、部屋の主人智鳥は、同居猫を抱きながら手足の生えた変な瓶と酒を酌み交わして
いる。
智鳥の前にはグラスに水割りが、瓶の前にはおちょこにストレートウイスキーが。
瓶は先程から自分の中味を味わうかのように、おちょこを傾け、結果、テーブルを酒浸
しにしている。
ごそごそ、と腕に抱かれたセリカが智鳥に無言で呼びかける。死んだ魚のような目が、
『ナントカシロヨ』と訴えかけてきた。飲み始めてから既に古時計の長針が一回転してい
る。
怪しい瓶『響』は十数回おちょこを傾けていて中身は半分ちかくにまで減っている。勿
体ない。
彼女(なのか?)は、くだを撒くでも、からむでもなく、ただ杯を重ねるだけでたいし
た被害は無かった。
しかしどうにも空気が重い。
・・・・・・・・・・。
これからどうしたものだろう。智鳥のため息がそう云った。
時間は一時間ほど溯る。
ただでさえ狭い八畳部屋の半分以上を勝手に占領し、上下と隣人にねじ込まれる程の大
音量、それも低音のあや怪しいリズムで。さらに霧か煙のような靄が部屋に充満し、とど
めといわんばかりの稲光が2DKを轟音付きで駆け巡る。しかもそれらを引き起こした張
本人は奇怪な変身の真最中。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・みぃ」
稲妻に弾き飛ばされた茶碗を避けながら、文句のひとつも言ってやろうと考えていると、
セリカがそばにすりよってきた。
「うん?何だセリカ?」
「みゃあ」
そういえば変身するのはいいとして服はどうなるんだ、とセリカは言いたいらしい。
智鳥はその意を理解したがとっさに行動できなかった。バスタオルを用意するか、カメ
ラを構えるか迷った、などとは口が裂けても言えない。
そんなことを考えている間に、部屋の様相が変化した。ドラムの音が小さく、それでい
てリズムはより速くなり、稲光は緊張した空気を孕みながらもおさまっていく。しかし辺
りを包む靄はより濃くなっていき、すでに変身中の響の姿は確認できない・・・・・本当
に八畳間か?
そして最高潮。
窓ガラスを震わせる轟音と、眼を焼く閃光が智鳥の叫び声と重なった。
「わあああああああああ、ちょっと待ったああああああああああああああああああ 」
まだ、バスタオルもカメラも用意していない。いや、そうじゃなくって。
頭を抱える智鳥を無視してセリカが薄くなっていく靄の中に入っていく。
それは部屋の真ん中、ちょうど照明の真下に立っていた。
黒く炭化して、細い煙を数本たなびかせ、周りには砕けた蛍光灯が散乱している。
「・・・・・直撃したな、最後の」
いつの間にか、セリカのとなりにきた智鳥が人型の黒炭へと合掌している。眼が笑って
いるぞ。ホントに死んでると思っているか?智鳥。
「みゃおう」
とても悲しんでるとは思えない一声を発すると、やおら炭化した人型の物体へ鼻先をつ
ける。
「食うなよ、セリカ」
絶対、腹壊すから。その言葉は飲み込まれた。
鼻を衝けた瞬間、炭化した表面にペキッとヒビが入る。ヒビは胸から全身へとペキペキ
と拡がっていき、頭と四肢が砕けた。当然、真下にいたセリカは灰だらけになる。黒猫で
よかったな。
智鳥がセリカを灰の中から、摘み出そうと引っ張ると、黒い尻尾に掴まる、なまっちろ
い手が現れた。
「失敗してしまいました」なまっちろい手の持ち主は、そういって頭を軽く掻くのだった
が、部屋の惨状、智鳥の表情、高く積もっている灰、灰まみれのセリカへと視線(目が有
るのかは聞かないでくれ)を移していくと、消え入りそうな声で「すみません」と謝り、
掃除道具を取りに行った。
一〇時三五分。状態は五分前と大して変わっていない、あいも変わらず神経を磨り減ら
す沈黙が続いている。しかし三〇秒後、突然に変わった。某毒舌家
調でいうなら、
「ドライアイスの鑢を孕んだその静寂は、たとえ美女の熱き想いを唇に乗せてさえも消え
るとは思われなかった。しかし既に次の幕は上がり、舞台は動き始める。勇敢な王子も可
憐な姫もたとえ誰であろうとその静寂を何時誰が壊すのか知らない・・・・・舞台裏から
覗いている悪魔以外は」
と、成るところである。
トントン、と扉を叩く音がして、返事も聞かずにいきなり扉が開く。トイレの扉だ。
すぐに響が応対に飛んでいった。おちょこを放り出し、文字通り飛んでいったのである。
「たぶん、百目禁制人か緑色怒声人だぜ」
「みゃあ」
八足歌聖人かも。って、朝からの異変で既に慣れたせいか二人とも動じていない。
玄関、否トイレの方から響と中年男性の声が聞こえる。声だけで判断するなら案外まと
もな人かもしれない。
もっとも響の姿を見て、なんのリアクションも示さない人物が、まともだとは思えないが。
やがて響に連れられて来たのは、派手なボディペイントをしたコンクリート片だった。
コンクリート自身の色具合、そして針金の先に付いた値札があるところを見ると、出身は
ドイツのベルリンらしい。
「やあ、突然お邪魔します」
コンクリート片は、黒いシルクハットを短い手で器用に挙げて見せ、続けて名前を、と
言うところで詰まってしまった。察するにまだ名前が無いらしい。
「とりあえず、ジャーマンでどうです?」
「そうですね」
どうやら話は通じたらしい。
智鳥は要件を聞こうとしたが、ジャーマン(仮)は手で智鳥の発言を抑えた。急いでい
るのか、しきりに古時計を気にしていた。
「みゃあ」
「お急ぎですか?」
「ええ、ちょっと・・・ すみません。急いでるものですから」
言葉の前半はセリカへの応えで、後半は智鳥に言ったものである。あんまり長居したく
ないらしい。が、その割に声はのんびりしている。
コンクリート片は智鳥と響に頭を下げると立ち上がって出ていこうとした。響が先にな
って歩き、玄関に行くかと思いきや、着いたところは冷蔵庫の前であった。
そこが出口か、この分だと玄関はどこへ続いているのやら。
「それでは、ごきげんよう」
「おきをつけて」
「みゃあああ」
「・・・・・・・・・・」
四者四様であいさつを交わすと和やかな雰囲気のまま冷蔵庫の扉がしまった。扉の向こ
うに消えたジャーマンの表情が気になる。
一人だけ沈黙していたのはこの部屋の主人で、冷蔵庫の中にあった一週間分の買い置き
がきれいさっぱり無くなっているのを知ったからだった。代わりにそこには黄色いレンガ
の道が・・・・・。
「・・・・・」
無言で部屋に引き返す智鳥を響が見咎めた。
どうしたんですか、との問いに朝からためた不機嫌で応え、そのままヘルメットを抱え、
出かけようと玄関へ向かう。黄色いレンガの道についてはあえて言及を避けている。
靴を履こうした手が不意に止まる。目の前の扉を叩いている者がいるのだ。
「まともな客かな」
「にゃあ」
一緒に出かけるつもりでついてきたセリカが応え、さらについてきた響が感想を述べよ
うとしたとき、扉の鍵が弾き飛ばされた。次いでミシッ、とチェーンが引きちぎられる。
そこに立っていたのは身長二〇〇センチメートル程の兎。それもどう見てもキャロルの
小説に出てくる、『大きな懐中時計を持った兎』にしか見えない。
そいつは一同を見渡し、智鳥に視線を合わせて、にやり、と微笑んだ。悪魔の微笑みで。
二、途中の風景・・・かな --- 了


