ある人が言っていたな。

「愛想のいいパーソナリティ(以下PS)なんて、呑み屋のねーちゃんと同じ」

言葉は悪いけど、考えさせられた。

リスナーにとってPSは多対1だけど、PSにとってリスナーは1対多。

つまり、リスナーにとってPSは一人だけど、PSにとってリスナーは10や20じゃ収まりきれない大多数。

いくら愛想を貰って近くなったように感じても、それは錯覚だわな。

でもそう思いたくないっていう意見も事実。



ま、このあたりが『呑み屋のねーちゃん』なんだろな。

今日、親友の父親のお通夜へ行ってきた。

親友は気丈に喪主を務めていた。

人は産まれたときから毎日毎時間毎分毎秒、死ぬその時のために生きる。

命は限りあるものだけど、限りある命が燃え尽きるその時まで、人は生きた証を残すために必死に生きる。

今こうして、さして「生」意識せずに安穏と今を過去に変えている我々も、明日とは言わず今日、いや、今この時を最後に生を終えるかも知れない。

その時、自分が生きた証はあるのかな?

この世界に自分が存在したという確かな証を残せているのかな?



ふと不安になる夜だった。