あれから9年・・・。
今年も3月11日を迎えました。
下記の投稿は、私が、4年前の2016年3月11日、他のSNSで投稿した文章です。
なので、全て、文書の中で、震災を「5年前」と記載していますが、
ここへ、コピーして掲載します。
震災から5年が経ちました。
5年前、私は山形に住んでました。
地震の揺れは確かに大きかったのですが、茶碗一つ割れず、程度です。
多分、首都圏の方が、揺れも大きかったのでは?...
唯一困った事は、翌日の夜まで電気が止まってしまった事位です。
オール電化のマンションでしたから、お湯も沸かせず、暖房も使えず・・。
マンションは電気が止まると水も出ず。なので、トイレの水も流れず・・・。
でも、そんな事は、些細な事で、被災地の方のご苦労からすれば、なんでも無い事でした。
が・・。
3月15日位からだったかな・・・。
某職業の奥様お子様方が、北海道へ退避し始めました。
う~ん、これは、かなりヤバイ事なのか?と・・。
お隣の被災地の宮城入りする前の自衛隊の方々が、
山形に滞在していたのですが、迷彩服の上に、防護服を着てる自衛隊員が、
スーパーで買い物してる姿を見た時は、「あ~、私達国民に、政府は、何か重大な事を隠しているのだな」
と思ったのでした。その後、だいぶ経ってから「原発は、メルトダウンしていて、東日本壊滅危機に陥っていた」と報道されました。
私も夫の勤務先からの指示で、3月16日、山形空港からの臨時便で、羽田へ戻されました。
その日大雪だった山形空港は、滑走路の除雪が間に合わず、
ダイブアウトで、新千歳へ向かってしまったり、羽田へリターンしてしまったり、
山形空港の離発着は、ストップしてる状態でした。私が乗るはずだった最終便も、
全く見通しがつかず・・・。夜中の12時に、JALから、搭乗待ちの旅客に、
おにぎりが配られました。おにぎりの具は何もなく、塩おむすびでした。
私は夕飯を自宅で済ませた後だったので、お腹は空いてませんでしたが、
宮城や福島からいらした方は、乗り合いタクシーで、やっとの思いで、山形空港に着いた方もいらしたので、その塩おむすびが、どんなに美味しかった事か・・。
その後、夜中の1時に、無事に山形空港を離陸できる事になりました。
除雪スタッフの方が、吹雪の中、離陸する飛行機を、大勢の方が整列して、
お手ふりして、送り出してくださいました。いつもなら、お手ふりの誘導職員に、
機内の中から手を振ったりしない私ですが、その時は「ありがとうございました~!無事離陸します~!」と、
大きく手を振り返しました。
そして、羽田に着いたのが夜中の2時。
なんと、JAL職員が、大勢、羽田で待機してくださっていて、
宿泊が必要な方用に、ホテルの準備がされてました。
リムジンバスに乗せられて、品川のプリンスへ。
もちろん、リムジン代もホテル代もJALもち。
到着する前までは、こんな時間だから電車もないし、
タクシーだって、こんな夜中だから、きっと長打の列で何時に乗れるか?解らないだろうと思っていました。
国内線ターミナルって、24時間営業じゃないから、追い出されてしまうかも?
こんな時だから、クルー用のバスで、国際線ターミナルへ連れて行ってもらえて、
毛布位貸してもらえるかも?なんて思っていたので、まさか、ホテルが手配されているなんて夢にも思っていませんでした。
さすがJALです。日本の翼は、JALが守らなきゃ。
当時経営破たん直後でしたが、なんだかんだ「腐っても鯛、潰れてもJAL!ダサくても慶応!(笑)」と思ったもんでした。
その後、10日位で、山形へ戻っても良い事になったのですが、いったいあの深夜の大移動させられたのは、何だったのでしょう・・。
もうとっくにメルトダウンしていて、山形だろうが、東京だろうが、どこにいても、同じだったじゃないですか?の話。
風向きからして、東京にいたよりも、山形にいた方が、むしろ安全だったった訳で・・・。
それだって、政府が、ちゃんと情報を公開しなかったからな訳で・・。
そんな訳で、あれから5年。
今だ仮設住宅で多くの方が暮らしてらっしゃいます。
国立競技場の建設代を見聞きする度に、その予算で、
被災地の復興にどれだけ役立てられるか?と思ってしまいます。
今から5年後「あれから10年経ちました。こんなに被災地は元気になりました。」と言える位、
もっともっと早いスピードで復興する事を、心から願ってます。
と、4年前に書いていました。
これを書いた日から更に4年が経ち、震災から9年が経ちました。
被災地は、復興したのでしょうか・・・?
立派な国立競技場は、予定通り無事に完成しました。
被災地の復興は?・・・。