桜を見上げて想う
3月末日、「4/1エイプリルフールにつき臨時休業」と、書いた紙を、シャッターに貼り付けて帰った。
この貼り紙を見たお客は「はて?」と、思案を巡らしただろうか。
当日、僕はほくそ笑みながら、家内と大阪狭山池に桜を見に行っていた。
土曜日という事もあり、駐車場に入るのに、長蛇の列が出来ていた。
ぬかった、自転車で来ればよかった、と思ったが、今更引き返すのも面倒くさい。
駐車場真向かいのコメダ珈琲で、珈琲でもすすりながら様子を見ようと思ったが、考える事は皆同じ。
コメダ珈琲の駐車場も順番待ちの車が。
まあそんなこんなで、少し離れた駐車場に車をとめ、狭山池までのんびり歩いた。
途中、肩に暑いほどの日差しを感じ、上着を脱いだ。
空を見上げると、薄く掃いたような雲が静かに流れている。
池を渡る風は頬を撫でるように優しく、満開の桜の下、笑みを浮かべた人達で賑わっていた。
弁当を広げている人たち、キャンバスに向かっている人、しきりにカメラのシャッターを切る人など、長閑な光景がそこにあった。
春爛漫とはこの事を言うのだろうなあ。
ところで、例えば「花見」のように、
何気なく当たり前に思っている事に、ふと不思議さを感じる事がある。
咲き誇る桜を「綺麗だねえ」なんてしゃべりながら通り過ぎるのは、ごく自然な事だ。
だけどこの日本という国は、群生(とは言わないのか)する桜を愛でるだけでなく、その下で宴を開く。
僕たちは、それをごく当たり前の年中行事のように見聞きし、或いは体験し育ってきた。
知人に世界を旅するアメリカ人がいる。
毎年桜の時期になると、ご夫妻でここ堺ににやって来られる。
何のはずみか、住居もお待ちだ。
そして、同じく狭山池の桜を楽しむ。
氏はこうして桜の木の下で宴をする国は、多分日本だけだと思うと仰る。
先日、氏が「何故、宴をするの?」と、素朴な質問をなさった。
僕は「それが日本人の粋というものです」と、答えた。
「ふーん。イキ、ワビ、サビ。いいねぇ」と、日本贔屓の氏は楽しそうに笑う。
余談ながら、何かの本で花見の歴史は古く、上流階級の間で行われた、と読んだ事がある。
花見が庶民に広がったのは、それから随分時が経った江戸期だったとも、書いてあったような気がする。
数年前まで、僕は自ら桜を見に行きたいと思った事はなかった。
それが、桜が美しも可憐だと気づき、見に行かなくちゃと思うようになった。
人の心というのは、つくづく不思議だねえと思う。
若い頃は、自分の未来は永遠に続くように思っていた。
それが、いつの頃からか、カタチあるものには限りがあると気がつき、多くの事を愛おしく思うようになった。
魂が永遠に続くかどうかの話ではない。
兎も角、成就しようがどうだろうが、やりたい事はやってみる、見たいものは見る、行きたいところは行く、とそう思えるようになった。
ただ、どうやって店を休むかだけど・・・
唐突だが、このブログを始めて、15年目になる(かな?)。
当初からお付き合い頂いている方々も、僕と同じだけ年齢を重ねていらっしゃる。
皆さんの新着記事がアップされていると、どこかホッとすると共に、お互い元気でいましょうと思う。
時の流れは気持ちがついていけない程はやいけど、
僕は今日もよたよたしながら、やりたい事をやりつつある。
