どんな生き方があったのだろう? | レトロショップ成穂堂 (なるほどう)ケンの苦悩と爆笑の日々

どんな生き方があったのだろう?

ブログを開く時間もなく、バタバタとしていた。

で、気がつくと、今年も花粉症の季節に突っ込んでいた。

もう目は痒いわ、鼻は出るわで、仕事にならない。

毒を盛られたかのように体もだるい。

例年、これが4月いっぱいまで続く。

去年より幾分マシだが、それでもさっさと5月になって欲しい。

4、5年前から鼻の反応はましになったが、その代償のように目の反応がひどくなった。

本来、春は好きである。

その春を楽しめないというのは、何とも淋しい。

少し肌寒く、ピンと張り詰めた春の空気は、ざわめきと希望の入り混じった入学間もない学生時代を思い出す。

特に、大学生になり書店でバイトを始めた頃を思い出す。

バイト先の先輩方は、とても大人びていて、その考え方に触れる度に、計り知れない刺激を受けた。

何もかもが、新鮮だった。

少し当時の事を書きたい。

奇遇にも田舎から出てきた従弟が同じ大学だった。

ただ、僕は一浪、従弟は現役だった。

従弟のアパートは大学の裏手にある丘を上りきった所にあった。2棟40部屋以上もある大所帯だった。

朝夕2食付、大浴場ありといった当時としては贅沢なものだった。

このアパートがある一帯は同じような学生アパートが密集しており、その周辺は朝晩問わず彼ら学生で賑わっていた。

勿論、銭湯もあり、その近くにはその丘を象徴するような大きな桜の木があった。

アパートの東南に広がる竹林の間を縫って下ると、大学の裏門に繋がっていたので、便利と言えば便利な所だった・・・急峻な坂道さえ平気なら。

僕は当たり前のように従弟の部屋に入り浸たった。

従弟の部屋は6畳+3畳で、3畳間の奥に押入れを改造した2段ベッドがあった。

狭いが2人でも住める。

お互いの親から、なんなら2人で住むかとも言われていた。

そのアパートの住人は誰も部屋の扉に鍵を掛ける事もなく、いきなり誰ぞの部屋を訪ね、そのまま朝まで語り明かす事も珍しくなかった。

何の確証がある訳でもないのに、将来への不安よりも明るい未来を信じていた。

今でも、従弟と懐かしくその時代の話をする。

パソコンもスマホもない時代だったが、不便でもなく暇で仕方ないという事もなかった。

僕はろくすっぽ授業にもでず、バイトや遊びに明け暮れていた。

学内のクラブハウスなど、古びた建物の塀には、ペンキで書きなぶられた学生運動の残骸があった。

それを見ても、少し世代が違うだけでこうも生き方が違うのか、彼らは日本を本気で変えようとしていたのか? ただただ大きな権力に噛みつこうとしていただけなのか?と、漠然とした気持ちしか湧かなかった。
ようはスクリーンの向こうの出来事としか思えなかったのだ。

そこには、学費を稼ぎだしたり、憧れのIVYブランドを手に入れては満足している平和ボケした僕がいた。

テニスだ野球だビリヤードだとはしゃいでいる僕がいた。

僕は限りなく愚かな学生だった。  

・・・もう一度やり直すなら、どんな生き方があるだろうか。

「森田童子」の曲に、そんな歌詞がある・・・

ハラハラと舞い散る桜の花を見ると、あまりに稚拙だった自分をしみじみと考えてしまう。

それでも春の空気は好きだ。

皆さん、桜の季節をどんな気持ちで、どんな思いを持って、過ごされるのでしょう?