人はそれを我田引水という?
先日、Facebookを特集したニュースが、賑やかに流れていた。
「ふ~ん」と言いながらも、僕も去年、Facebookアカウントをとり、
ほんの希にくだらないことを書き込んだりなんかしている。
懐かしい顔を見つける事が出来ればいいなあ、
といった程度の動機で始めたので、未だにその域を出ない。
ニュースでは、あっという間に二桁の知人が見つかりました!
なんて言っていたが、僕がみつけた知人は数人だけだった。
それでも、「おお~」なんてひとりで歓声をあげていた。
昨日は、どうもサラリーマン時代の後輩ではなかろうか?という人物が見つかった。
プロフ詳細が殆どなく、画像もない。
辛うじて、勤務先の出版社名と見覚えのあるロゴマークがあった。
90%本人に違いない。
残り10%は何?と、言われてもちょっと困ってしまう。
暫らく「んん~」なんて言っていたが、
僕は決意して、メッセージを送ってみる事にした。
「ぶしつけな質問ですが…」と、いう感じだ。
すぐに「○○のKENさんですか?」と、いう返信がきた。
(僕のプロフ画像を見て分からぬか・・・
それだけ僕は、若々しいままだという事だな、きっと)
「そう、おいらだ。元気かえ?大阪にきた時にまた会おう」
そんな返事をしながら
チラッと「あらしのよるに」という本が頭をかすめた。
出版社にとって古本屋という存在は
決して有難いものではないかも知れない。
図書館もそういう存在かも知れない。
でも、それは考えようで、プラスの面だってある。
作家業をしている知人もそう言っている。
例えば古本屋は、概してお値段的には手を出しやすい本が多い。
読んだ本が面白ければ、
それがきっかけで新刊本屋に足を運ぶことだってある。
絶版本だって大切に棚に並べてある。
出版・書店業界にあって、古本屋だけは相反する立場のように映るが、
きっと目に見えないバランスの上に
それぞれの存在価値があるのだと思う。
みなさん、新刊屋と古本屋をどう使い分けていらっしゃるのか?
とても興味があるところだ。
読み返していくと、Facebookから古本屋の存在意義へと
どうも我田引水のようなきらいもある。
ここらで筆を置く方が懸命のようだ。
ではおやすみなさい。

「ふ~ん」と言いながらも、僕も去年、Facebookアカウントをとり、
ほんの希にくだらないことを書き込んだりなんかしている。
懐かしい顔を見つける事が出来ればいいなあ、
といった程度の動機で始めたので、未だにその域を出ない。
ニュースでは、あっという間に二桁の知人が見つかりました!
なんて言っていたが、僕がみつけた知人は数人だけだった。
それでも、「おお~」なんてひとりで歓声をあげていた。
昨日は、どうもサラリーマン時代の後輩ではなかろうか?という人物が見つかった。
プロフ詳細が殆どなく、画像もない。
辛うじて、勤務先の出版社名と見覚えのあるロゴマークがあった。
90%本人に違いない。
残り10%は何?と、言われてもちょっと困ってしまう。
暫らく「んん~」なんて言っていたが、
僕は決意して、メッセージを送ってみる事にした。
「ぶしつけな質問ですが…」と、いう感じだ。
すぐに「○○のKENさんですか?」と、いう返信がきた。
(僕のプロフ画像を見て分からぬか・・・
それだけ僕は、若々しいままだという事だな、きっと)
「そう、おいらだ。元気かえ?大阪にきた時にまた会おう」
そんな返事をしながら
チラッと「あらしのよるに」という本が頭をかすめた。
出版社にとって古本屋という存在は
決して有難いものではないかも知れない。
図書館もそういう存在かも知れない。
でも、それは考えようで、プラスの面だってある。
作家業をしている知人もそう言っている。
例えば古本屋は、概してお値段的には手を出しやすい本が多い。
読んだ本が面白ければ、
それがきっかけで新刊本屋に足を運ぶことだってある。
絶版本だって大切に棚に並べてある。
出版・書店業界にあって、古本屋だけは相反する立場のように映るが、
きっと目に見えないバランスの上に
それぞれの存在価値があるのだと思う。
みなさん、新刊屋と古本屋をどう使い分けていらっしゃるのか?
とても興味があるところだ。
読み返していくと、Facebookから古本屋の存在意義へと
どうも我田引水のようなきらいもある。
ここらで筆を置く方が懸命のようだ。
ではおやすみなさい。
