朝10時半頃に起床。にゃんひこ氏の車で大阪へ。なんだかんだと話しながら向かう。普段、電車でいくので、毎回新鮮だ。しかし、関西在住の旦那様より高い頻度でにゃんひこ氏に会うのは気のせいか。ちょっと笑ってしまう。
御帰宅のち、ゆっくり過ごして、寝不足なまま仕事へ。昨晩、朝4時半までshowroomを聞いていたからだ。眠い。本日、仕事は中抜けの予定。19時に出たかったが、なんとか19時15分には出た。アプリ導入割引で安く乗れるらしいのでタクる。が、時間がかかる。目の前を何台もタクシーが通り過ぎていく。間に合わん...。
19時37分頃、御帰宅。いないはずの友人の声が聞こえ、なぜか乾杯の音頭をとっている。なんと!
御帰宅して座る。少しゆっくりする。e-maidの周年祝会に参加するのは初めてだ。去年は、長い常連で参加したい人も多いだろうと遠慮した。今年は、遠慮するよりも参加したい気持ちが勝った。参加して本当に良かった。正直、何度か視界がゆるんだ。
構成、進行はシンプルかつ潤滑だった。乾杯のち、定められたテーブルにメイドが付いてお給仕。途中、新人ズによる出しものあり。『恋するフォーチュンクッキー』『いぬねこ青春真っ盛り』のダンスである。いぬねこは付近座席と大いに盛り上がり、大変楽しかった。最後に、新店舗としてBAR進出が発表された。
10時過ぎにはお出かけ、タクシーで職場へ戻った。控えめにいっても最高の夜だった。
では、あらためて考える。何がそんなに良かったのか。ぼくは、メイドカフェに「中間共同体」なき時代の一つの可能性をみている。たとえば、悪く言おうと思えば、「メイドカフェ」という形態・業界に対して、女性の感情労働に依存し、ミニマムな「やりがい」の搾取、承認欲求の共犯関係を売りにする商売だということは出来よう。しかし、ぼくは、メイドカフェのもつ「謎の福祉」の発露にこそ、価値を見ている。たしかに、メイドカフェは経済と欲望の交差点だ。しかし、そこでは、悪意よりも善意が勝るのだ。
「謎の福祉」とは何か。具体例でいおう。たとえば、米国にてハリケーンで壊滅的打撃を受けた街の飲料水の事例がある。ペットボトルを高値で売るために業者がハイエナのように押し寄せた。同時に、寄付として支援物資も集まった。結果、飲料水は価格崩壊を起こし、被災者たちには十分な水がほぼ無料で提供された、という事例である。
経済的意思が交錯した結果として、誰にも意図し得ないかたちで「謎の福祉」が発露することがある。ぼくは、同質のものをメイドカフェに見ている。15周年記念のために集まった人々の中には、もしかすると相対立するような関係もあっただろう。しかし、それらの小さな悪と負荷を越えて、一つの場所を記念し、祝うということにおいて、「15周年記念祝会」という場への敬意が保たれ、愛が守られた。
運営側の労働は、限りなく遊びへと相互浸透し、対価と寄付の境界が溶けていく。そういう時間だった。言うなれば、地元の神社の祭のような空間である。誰もが、その時空を喜び、老若男女とその背景を越えて、ひとつの価値を浴びて共有して歓んだ。
思うままにいえば、神の固有名詞ゆえに善があるのではない。善のあるところに、神の名が隠れている。それは固有名詞が一般化することを赦し、一般名詞が固有名と手をつなぐことである。この神々の相互浸透がもたらす世界は、限りなく、彼岸と此岸を混淆させ、善悪の彼岸にある「善」を現象さしめる。この「善」だけが、同様に現れる「悪」への唯一の対抗手段なのだ。
歴史の終局における善の総和が悪の総量に勝ること。これこそがアブラハムの宗教の根幹だと思う。そして、地中海から遠い太平洋弧で語るべきは、その「歴史」の悪さえも、善に転換することである。ぼくが、生涯を捧げた道から離れてまで見ようとした地平が、たしかに見えている。そんな思いがした。
メイドさん、妖精さん、オーナー、また旦那様お嬢様方、本当に有難うございます。15年間、ここを支えてきて下さった人々のおかげで、ぼくは言葉にならない、楽しい時空を過ごすことができました。感謝しています。そして、時機のゆるす限り、しばらくは、ぼくも先輩方にならって、この場所を支えたいと思います。
ありがとう。
さあ、行きましょう、祝祭の向こう、次なる祝祭をめざして。
最後に祝祭の夜にふさわしい古代の詩を引用しておく。
ダビデがよめる京まうでの歌
観よはらから相睦てともにをるはいかに善いかに樂きかな
首にそそがれたる貴きあぶら鬚にながれアロンの鬚にながれ
その衣のすそにまで流れしたたるるがごとく
またヘルモンの露くだりて
シオンの山にながるるがごとし
そは 主 かしこに福祉をくだし
窮なき生命をさへあたへたまへり
(文語訳 詩篇133)
※top画像は懇意の旦那様方より引用。