13時過ぎ、京阪に乗って御帰宅。今日は、最後のコラム連載に向けての読書である。畏友作家氏に本を渡して、しばし談笑。作家と学者。緊張感のある話となり、なかなか良い感じである。作家氏が出たあと、コラムのための読書続き。本当に良い本だった。なぜかうなぎ氏が興味を示したので、以下に、要約とともに感想を置く。
黒瀬陽平『情報社会の情念 クリエイティブの条件を問う』(NHK出版、2013年)の感想。
黒瀬陽平といえば現代アート集団「カオス*ラウンジ」の炎上事件で、覚えている人もいるかもしれない。オタクからは散々叩かれた人だ。とはいえ、最高峰・東京芸大の博士課程を出ているので、国内屈指のアーティストにして美術評論家でもある。読了して気鋭の才能の発露に舌を巻いた。
黒瀬は現代のような情報環境においてクリエイティブの在り処=「制作」の思想の宿る場所は、アーティスト本人よりも、その作業環境インフラ=運営に宿ると指摘する。この「運営」は、膨大なデータを元に適宜ユーザーに合わせて修整、変更されていく。しかし、その極地は、結局、ひたすら自分が見たいものだけを見るという行き止まりと息詰まりである。
大雑把にいえば、そのような「運営の思想」がもたらす情報ディストピアの隘路を切り開くために、黒瀬は「制作の思想」と「運営の思想」の交差点を探す。そこにこそ現代のような情報環境社会における「クリエイティブ」と「創発性」がある。「創発性」とは、生命が発生するように、単なる総数の和を越えた次元への作用である。たとえば、「三人集まれば文殊の知恵」とでも言えようか。
黒瀬は、この「クリエイティブ」と「創発性」を、寺山修司の実践、岡本太郎の制作に見出す。黒瀬によれば、彼らの作品には、現実ではありえなかった世界、言いかえれば、あり得たネガティブな可能世界が、作品の幅をもたらしている。すなわち、「両義性」がある。
黒瀬は、ここからキャラクター論へと転じ、漫画「HUNTER×HUNTER」の「ナニカ」に触れて、日本美術史を大胆に読み替えようとしている。歴史の古層に潜む「キャラクターの力」こそ、科学技術と情報のディストピアにおいて「「別の何処かから来た」巨大な力の正体をとらえ、それをのりこえてゆく未来を描く」ものだという。
「先の震災で私たちが目のあたりにしたもの...「日本全体が傷つき、痛み、言いようのない叫びをあげた」姿...私たちはその叫びから「集団的だったけれども、異様に孤独な響き」を聞いた」
黒瀬は、岡本太郎を引用しながら語る。読みながら、胸が詰まる。「京アニ」事件を思わずにはいられなかった。テン年代を象徴する水と火による破局。本書冒頭において、黒瀬は「3.11」が彼の実存に深く影響していることを隠さず述べている。控えめにいっても名著だ。
おそらく、日本、震災以後、アニメ、コンテンツ、経営、製作と運営、SNS全面化時代、というキーワードを考えるならば一読の価値があるどころか必読だ。黒瀬陽平氏の博論審査の概要PDFもあるし、書評として読むにも良いだろう。管見の限り、メイドさん方は、アート、デザイン、製作関係の人も多いようである。制作の理論的な話ではあるが、きっと何か刺戟を受けて益するのではないか、と思うので、オススメです。
ぼくとしては、ものすごくヤル気の出た本だった。分野は違えど、ぼくも似たような問題意識で取り組んでいる。不惑をこえたし「時代を弔うために」動きたい。こんな時代に、現代において「ものをつくる」とはどういう意味か。その補助線になる名著である。
19時の電車で帰洛。後ろの人が咳き込んでいて、ちょっとびびってしまった。
自宅に戻り、連載コラムの最終回を作成、推敲、初稿の提出。その後、えみさん、せなさんと話題になった「犬鳴村」に関するメモを作成した。0時過ぎよりドラマsupernatural S8-ep4を視聴。狼男の話をモキュメンタリ・タッチで撮ったものであり、なかなか面白い。その後、アニメ一方通行の最終話。どうにも最後まで、ぼくにはテンポの合わない作品だった。
【ぼくが視認したお給仕ズ】
えみ