その昔、確実なものとは何かを突き詰めて

何もかもを徹底的に疑うことにした男がいた。





目の前にあるものでさえ

夢かもしれないと退けるほどに徹底すると

誰も疑うことのなかった、「存在」というものすらも

確実とはいえなくなっていった。





絶対確実といえないものは、

すべて退けることにすると

もう何も残されていないようにに思えたが






最後の最後

疑っている自分は疑いようもなく

思考している自分自身は確実だと気づいた。






こうして思考する自分という

「主観」の概念が生まれ





「存在」、つまり「物質」に先立ち

「精神」、つまり「認識」がどうあるかが

まず問われなければいけない、とする






認識論が登場することになった。






確実を追い求めた結果、

当然と思われていた存在は、

そうではなく、どう認識するかが存在を決める

という方向へ大きく舵をきることになっていったのです。






このさき、

精神世界という新しい地平に、

主観と客観を一致させる理論の構築を目指す






認識のあり方が議論されていくことになっていきます。






これがデカルトの認識革命。






それでは、これから

その後の哲学者らが認識についてどう考えたのか

それぞれの認識論を振り返ってみることにしよう。






そして、「私たち」は

自分自身を省みて、そのように認識しているのかどうか

自問しながら進めていくことにしよう。