コーヒーは農産物であり、生き物です。
機械に論理は通用しますが、
生き物に論理は(それだけでは)通用しません。
だから、筋書きどうりにコーヒーを作ることはできませんし、
そのコーヒーを、今以上のものにしようとすれば
探求していくしかありません。
しかし、何もないところから探求するのは、
地図もなく宝を探そうというのと同じで
得るものなく、途方にくれるだけです。・
で、どう向き合えばよいのか、
どうアプローチすればよいのか、
その方法論を、論理か知覚か 、といった記事で
考えてきました。
そこで、その探求の仕方は、
機械的なものには論理を
生き物的なものには知覚を使う、としました。
機械的なものは、分解し、分析し、もう一度組みなおしがきく
そういうものですから、
論理的にいかないとうまくいきません。
生き物的なものは、論理が通用しないほど複雑にできているので
そこに働いている原則を見出して、
細部に囚われず全体をみて
研ぎ澄まされた感覚器官を使わないとうまくいきません。
ですから、具体的には
機械的なものは演繹で、
生き物的なものには帰納を使うことが多くなっていきます。
こうした、アプローチの仕方を実践していくことが
近道になると考えているのですけども、
実践過程で、次のような問題が降りかかってきます。
アプローチの結果を前に判断するのは、
「私」という主観で、
主観は、ニュートラルでいることはできず
ある関心にそって方向付けられていますから、
それをそうだと自身がうなづけたとしても、
その自分の判断は、気づかないうちにどんどんと、
志向にそって偏ってしまっているのではないか。
「私」が判断を下すまでの判断プロセスは、
以前の記事 直感が信用できるとき 、で考え
現在では次の5段階を意識していますが
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はたらき(感覚作用)
①感覚器官からの受信ー刺激入力
②その意味付けー知覚
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はたらき(記憶装置の読み込み)
③イメージの想起ー直観
④概念の形成ー悟性 (understand)
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はたらき(思考)
⑤概念からの推論ー理性 (reason)
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この認識・判断のプロセスそのものが
「主観」の世界内の話なので、
主観内で適切な判断がどれだけ可能か。
それは、独善を乗り超えれるのか、
それは、間主観性を使えばいいのか
その他にいい方法があるのか。
そういうことが切実になってきています。
「そう云いきれるのは何故か、という根拠」
この宝物を探しに、
認識・判断の世界をめぐりめぐっていくことにします。