何か別世界のように扱ってしまう
捉えどころのない 「社会」 といわれるものを
射程に捉えようとするためには
まず、その領域を設定して対象化すべきだと思いました。
それには、その概念が
どのような文脈から誕生したかを知らなければと考え、
その誕生までの歴史を、これまで、ざっと振り返ってみました。
そこで分かったことは、
「個人」が権利をもつようになっていったことが
世の中を大きく動かし、
世界のありようを複雑にしていった、ということでした。
単に埋め込まれているに過ぎなかった「個人」は
「思想」や「テクノロジー」を得て、出現しました。
その「個人」の権利は
尊重されればされるほど、
拡大されればされるほど
また、それにしたがって、
その存在がかけがえのないものになればなるほど
一人ひとりの行為に意味が生まれ、
ある意味が大きな塊になると現象になっていくようでした。
フランス革命を契機とした
国民国家形成の過程で、そういった人の行為に注目して
複雑になった人の営みを見通すため
「社会学」が生まれ、
その考察の対象を「社会」と呼んだ、ということだったのです。
ですから、これまで見てきた
人類の歴史のはじまりのころの、
宗教システム や 法システム、政治システムなどは
大部分の被支配者を一括りにしていることから
ここで捉えようとしている「社会」といえるものではなく、
それは、支配階級の、統治する道具についてであった、
ということがいえそうです。
しかし、その後は、
「思想」や「テクノロジー」が発展したことで
「宗教」が与えていた絶対者に献身する平安より
理性や能力で自らの存在を高めることに意義を見出しはじめ
ひとりひとりが主役となる可能性が生まれてから
世の中が大きく動き出したと概観することが出来ます。
つまり、「社会」とは、
支配、被支配の二段構造では出現させえない
ひとりひとりが主役となる可能性をもった
「個人」の誕生をもって出現しうる
そういったもったものといえるかもしれません。
鎖でつながれた状態と自由な状態との違いとは何でしょうか。
同じことの繰り返ししかない毎日だとしたら、
何か語ることがあるでしょうか。
何か新しいことや希望を考えることができるでしょうか。
その生活しかありえないとしたら
そのときのコミュニケーションとはどのようなものになるでしょうか。
「社会」の誕生とは、僕なりに考えると、
他のようではありえない、他に選択肢はないという、
これまでの環境によって埋もれていた「個人」が
「他のようでもありうる」、他に選択肢がある
という選択可能性を「個人」が獲得したことによってなされました。
他のようではありえない、ときのコミュニケーション量と
他のようでもありうる、ときのコミュニケーション量は
考えてみたら分かりますが、天と地ほど違います。
一人ひとりがそのようにかわっていくのなら、
その選択される行為の可能性は
これまでとは別次元といえるくらい多様であったでしょう。
人の営みが爆発的に増えて「社会」が生まれた・・
さて、これまで、領域を設定し、対象化するため
歴史から、「社会」概念の誕生を見てきました。
そして、それは、とりあえず、次の図のように設定してみました。
社会は大きく捉える時システムと考えます。
内部に下位システムがあると考えます。
しかし、「個人」の出現、コミュニケーションの増大が
社会概念を誕生させた、と考えたことから
行為をするひとりひとりに注目しない限り、
その本質に迫っていくことはできそうにありません。
図にある 「マクロ」の視点 とあわせて
「ミクロ」の視点が必要になってくるのだと思います。
マクロとミクロ、両方から、その構造を捉え、
串刺しにすることを目指します。
次より「ミクロ」視点からアプローチしていきます。