歴史を振り返り
近代の、そして現代の科学を見てみると
その貢献は大変なものです。
劇的に生活は改善されてきました。
目覚しい進歩というのは
経験の伝承ではなく、
科学によってなされてきました。
科学のみに論理が使われているわけではないにせよ
これは分かりやすい例です。
論理の果たしてきた功績は大きい。
だから、論理的なアプローチの価値は
誰が見てもゆるぎないものでしょう。
自分自身を振り返ってみても、
何かを伝える時には
筋道を立てて話したいと思うし、
そうでなければ、理解されることはありません。
論理は決してないがしろにできない・・
あたりまえのことです。
しかし、論理だけに頼ることが出来ないことを
前回、展開してみました。
確率でみようということでした。
今回はさらに理解を深めるため、
頼れなくなってきている背景を
考えてみることにします。
結局、論理の本質を考えることになっていきます。
さて、誰もがそうだと思いますが、
シンプルに話してくれる人の話は、
分かりやすく理解しやすいものですよね。
そういう人は、関係のないことは省いて
そのことだけをメッセージにしてくれます。
何か問題に直面した時にも
そういう人に相談すると
「~だから~しなさい」と
シンプルに結論をだしてくれます。
思い切った言い方をしてしまうと
この「そういう人」の行為こそが
論理の本質なのです。
関係のないことを省いていく
捨てていく、ということが、
論理にするときの作業です。
論理構築とは
混沌の中から、関係のないものを捨てて
筋の通った、一本の木にしていく作業です。
私たちの身近にいる
「そういう人」は分かりやすくシンプルに
問題の解決策を提示してくれます。
その多くは役立ってきたでしょう。
一方で、いつも役立つわけではないことも
感じています。
それは、論理が、
分かりやすく納得させようとするものなので
一本の木にしていく過程で
大切かもしれないものを不要だとして
捨てている可能性があるからです。
科学が発展するほど
社会が多様化していくほど
これまでの理論が、
そして論理が
通用しなくなっている理由が
まさに、こういうことだと思います。
これまでの精度では問題なかった
論理、また理論も、
それぞれの分野で
細分化が進み、そして高度化し
複雑になっていくほど、
また、逆に境界がなくなり、
全体を考えなくてはならなくなっていくほど
これまで捨ててきたものが有意性を
持つようになってきています。
つまるところ
論理の本質は抽出作業なのです。
とりこぼすことがある。
といって、とりこぼさないようにしようとすれば、
複雑になりすぎて
わかりやすい論理ではなくなってしまう。
世の中は複雑系です。
全く無関係に思えるようなことでさえ、
関係ないとはいえなくなってきています。
バタフライ効果はよく知られたことですけども
アマゾンで羽ばたく蝶のゆらぎが、シカゴで雨を降らす、
この蝶の羽ばたきが、
全く関係ないとはいえないということが証明されています。
証明されているのです。
そんな中で
関係のあるものだけを
コンパクトにまとめることは、不可能に近い・・
結局、論理的アプローチは
実生活では考える必要は、多分ないと思うけれど
探求の場面においては、
つきつめていくと、確実ではなく確率でいくしかない・・
そうじゃないかもしれない
という意識を残しながらも
便利な道具として有効に使っていく、
というのが・・・・・・・・
論理だと思います。
論理は前提が基盤です。
つまり、こういう状況という設定時、有効となる。
だから、前提が崩れた時、有効性を失う。
現在の時代背景を考えてみますと
とにかく変化のスピードが速いということです。
いつのまにか、前提としていたものが、変わってしまうことがある。
すると、使えない論理になってしまう。
使えている理論や論理は前提が崩れていないということに過ぎない。
どんなレベルで使うか、どこまでの正確さを要求するか
ということで、大きく変わってしまうとしても
複雑系で変化の早い世の中で、
抽出作業の論理を使うには、
一つの道具だという認識が必要ということになってきそうです。
今回は、論理の本質と使われる背景を考えてみました。