人は、「情」だけでは疲れ、「理」だけでは渇きます。
できるだけ、「理」を「情」で包んで
それをコミュニケーションツールにしたいと考えています。
論理はとても重要で
これがなければ、何事も決まりませんが
しかし、その論理の出発点は論理で決めることは出来ず
主観や・・・こうしたいという気持ちで決めるしかありません。
同一の論理を別々の人間が利用して
始まり方と導きたいゴールに違いがでるのは、
結局のところ、論理は道具でしかないことを示しています。
一方、気持ちや感情もとても重要で
これに配慮しなければ、何事もやる気がおきませんが、
最初から最後まで、気持ちのままにゆだねてしまうと
得るものがあまりないことに、いつか気づきます。
「理」だけでも「情」だけでも無理があること
これは、誰もが分かっていることだと思います。
もう少し踏み込んで
感情と理屈が対峙した時というのを考えてみましょう。
人は、どちらを優先するのでしょうか。
その理屈をよく知っている人は、理屈を通そうとし
その信念が強い人は、感情に従い理屈は無視するでしょう。
理屈なら理屈、感情なら感情・・
どちらか一方を ポンっと だされたとしたら
人はそれをどう処理するのか・・
いきなり共感はできない。
つまるところ
どちらか一方を渡すことでは、
相互理解は深まらないのですね。
コミュニケーションは、
言語部分と非言語部分を一緒にしてはじめて上手に伝わる。
「情」と「理」は別々でなくセットにしなくては、
立ち止まって考えてもらえない。
「アタマ」と「ココロ」と「カラダ」
これを一体にしてメッセージは伝えるものなんだそうです。
身振り手振りを交え情熱をもって、
感情に配慮しロゴス(論理)は伝えるべきだと・・・・・
だから・・・・・・・・
包んで渡します。
「情」で「理」を。
論理は、手段であり、道具なのだからそのまま渡したりはしない・・
気持ちでくるんで渡していきます。