「胸」という漢字は形声文字で、

偏は肉体を表すにくづき、

旁は音を表すキョウでできている。

「胸」という字は、胸郭の中に「凶」を抱いている。

古代中国人は「胸」に「吉」ではなく、凶を抱かせた。

凶とは、災い、災難、悪を意味する。

 

歴史を顧みれば、人間が生き延びて行くためには、

日々、どれほどの「凶」と向かい合い、

闘っていかなければならなかったことか。

自然災害、病、大小の諍いや領土をめぐる殺し合い・・・

平和な日常が続く方が珍しかったかもしれない。

とてもじゃないが、「吉」は抱かせられなかっただろう。

 

現代日本の一見平和な日常にあっては、

そんな時代は過ぎ去った昔のことと思っていた。

ところが、人間の「胸」に宿った災い、悪は、

性懲りもなく幾度でも牙を剥く。

精鋭化した武器によって、

一般市民への無慈悲な大量殺人が可能になった。

ひとたび戦争が始まれば、

憎しみが憎しみを呼ぶ報復合戦によって、

容易に収拾がつかない。

 

そもそも、大国同士が対立関係にあるので、

中立の立場は取りにくく、

国際社会による停戦交渉も難しい。

 

これは対岸の火事ではなく、

渡辺白泉の俳句がいみじくも詠んだように

気がつけば「戦争が廊下の奥に立ってゐた」

という事態にもなりかねない。

ウクライナの戦火も収まらぬうちに、

イスラエルとハマスの激しい報復合戦。

普通の市民にとんでもない災厄が襲いかかっている。

恐ろしいことだ。

 

戦争が始まれば、どこの国民も熱狂し、

憎しみの感情に乗っ取られる。

人間の胸が抱く、性(さが)の恐ろしさを

想像せずにはいられない。