烏丸ママのブログ -379ページ目

桜便り

京都御苑近衞邸跡の早咲きの桜は2日でほぼ満開になりました。




京都御所朔平門と桜


本満寺はまだ

こんな感じ


同志社大学ぼや?

消防車がいて通れませんでした。


バス停では追突された?

市バスが止まっていた。

要注意日というのかもしれません。

和泉国一ノ宮 大鳥大社

堺に用があり、一ノ宮めぐり。

ついで参りはあかんと言われるけど、

次はいつになるかわからないので

和泉国一ノ宮 大鳥大社に参りました。

日本武尊の御霊である白鳥が飛来して

この地に留まると、一夜にして種々の木々が

生い茂ったと伝えられたことから

千種の杜と呼ばれています。



ご祭神は日本武尊

及び 大鳥連祖神

神馬さん

拝殿にはなみはや国体で来られた天皇皇后両陛下の幣饌ご下賜の札があります。


檜皮の上に銅葺


平清盛が熊野詣に行く際に祈願して詠んだ歌の碑があります。

歌碑は大鳥大社宮司だった富岡鉄斎の筆によるものです。

友人と

「根上がり楠がどこかなぁ」と言っていたら

「こちらですよ」と、参拝していた方が声をかけてくださって、

神社のことをいろいろ教えてくださいました。

どちらから?と聞かれたので、

友人は堺

私は京都

と、答えました。

すると、

「私毎月伏見稲荷にお参りするんです。」

とおっしゃっいました。

私も友人もよく伏見稲荷にお参りするので、

「これは伏見稲荷のご縁ですね!」

と、末社のお稲荷さんの前で盛り上がりました。

根上り松(伏見稲荷)ではなく

根上り大楠

その前からは本殿がよく見えました。

先程の方とはわかれましたが、


奥に行く道があり、

本殿の裏からお参りできるのかと進んでいくと、

小さい祠がありました。

ここでお掃除をする関係者のお話によると、

社殿ができる前から祀られてきた龍神様と日本武尊だそうです。

奥の立ち入り禁止区域には行基さんゆかりの井戸もあるそうです。


この鳥居の話も伺いました。

大鳥大社も2年前の台風で打撃を受けました。

あの空港連絡橋が壊れた時です。

順次修復されてきましたが、

鳥居の修復がまだされていなかったそうです。

そこに関東から来られた男性が

「昨日大鳥大社を初めてお参りしたところ、

その夜日本武尊が夢枕に立たれました。

何か私にできることがあれば

させていただきたいと、今日またこうして参りました。」

と、申し出ました。

鳥居の修復がまだ決まっていないと神社側が言うと、

その方が鳥居を寄付してくださったそうです。

国産檜の八角鳥居です。

ここの鳥居は代々八角なのだそうです。


与謝野晶子の歌碑が堺市内にはたくさん。

かつては反戦歌を詠む晶子の評判は必ずしもよくなかったので、最近建てられた歌碑が多いようです。

御朱印には白鳥が押されています。

境内でお会いした方々のおかげで

とてもいいお参りができました。

近衞邸跡の桜

思ったより寒い1日でしたが

京都御苑近衞邸跡の糸桜が咲き始めました。

手前にピントがこなかった💦

 池ですが

ずっと水が抜かれたままで草が生えてます!

3年前の台風で小さくなってしまった桜

 

いろいろな思い出の蘇る近衞桜
去年は卒業式がなかった息子の卒業写真を撮りました。
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その前の年は天皇として最後の京都訪問中?の上皇陛下御夫妻にお会いしました。
(京都の人はまだ東京奠都と信じ、いつかおかえりになると願っていますので。。。)
 
出水の桜

まだ咲き始めで時折雨の降る天気で人も少ない京都御苑でした。
 

京都と災害

平安遷都以来京都も大きな災害と向き合ってきました。
京都と大火という展示が大谷大学博物館で行われていました。
(終了)
大谷大学は浄土真宗大谷派の大学です。
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このポスターは東本願寺の火災の様子で、瓦が落ち

人が逃げまどっています。

西本願寺に比べて、東本願寺は本当によく被災しています。

展示は貞観の応天門の変からはじまって、江戸時代には瓦版で

その様子を知ることができます。

とくに江戸時代には宝永の大火(1708年 被災家屋10351軒)

京都の歴史史上最大の天明の大火(1788年 被災37000軒65000世帯)

どんど焼けと呼ばれる蛤御門の変(1864年被災家屋27000世帯)と大きな大火があり、

意外と古い建物が残っていません。

 (京都市のサイトを参考にしましたが、その火事により世帯とか軒数とか表記がまちまち)


また京都の人は「京都には空襲がなかった」と言われると

声を大にして、否定します。

「馬町と智恵光院に(爆弾が)落ちたのよ」

追記 太秦空襲もありました。

近年辰巳公園に建てられた西陣空襲の碑

死傷者109名 被害家屋292 被災者850人

 

先日訪れた杉本家の仏間には大きな石室のような地下室がありました。
「どんど焼けで焼けていますから。。。」
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近所の老人と話していると、

「今でも防空壕があります」

という方がありました。

最近その家が取り壊されました。

すると、こんな風にコンクリートで補強された大穴が出てきて

あれがそうだなと思い、写真を撮りました。

 

今はもう埋め戻されましたが、埋め戻したところは沈下していくでしょうね。

こうして、町家が壊されて、こういう歴史も消えていくのです。

 

また京都の町を歩くと隣家との境の塀に扉があります。

これも戦争中火事のときに避難するために作られたと聞きました。

それ以降もそういう習慣が残ったのでしょう。

これは路地の塀に開けられた扉

これは公園に逃げられるように作られた扉

隣家との境の扉はさすがに撮れませんので、

今もこのように避難経路が確保されていますが、

人口の密集する京都の町家ならではなのか、

他の地域にもあるのでしょうか。

 

北野さんの花手水と震災

暖かい1日でした。
北野天満宮の恒例となった花手水
今回もガーベラが多いです。花言葉は希望だそうです。
本日は東日本大震災復興祈願祭が執り行われました。

 

ピークはすぎましたが、きれいな梅もあります。

 

京都新聞にこんな記事が載っていました。
東日本大震災の折、アメリカ海兵隊による「トモダチ作戦」を覚えておられるでしょうか。
その指揮を執ったのが当時在沖縄海兵隊の政務外交部次長のロバート・エルドリッヂでした。
震災当日、日本政府は外交ルートで、米軍の支援を要請しましたが、
どこで何をすべきかなかなか決まらなかったのです。
混乱の極みで、補給拠点が定まらないと動けませんでした。
そこでエルドリッヂは仙台空港を拠点にすることを海兵隊上層部に進言し、
当時の防災担当の内閣府副大臣 東祥三に電話で訴えました。
「日本の縦割り社会では時間がかかりすぎると懸念した。」
(ボトムアップでは時間がかかるので、トップと話をしたということですね。)
そしてその後自衛隊と合流し、役割分担を決め、急ピッチで
仙台空港の復旧を果たしました。
当時在日米軍に対して世論を味方にする狙いたあったともいわれますが、
「日本にいる米国軍人として、手助けがしたかった」と言います。
エルドリッヂは阪神淡路大震災のとき、神戸大学大学院の学生で
震災を経験していたのです。
親しい友人二人が亡くなり、その時に日本の行政の杓子定規な考え方に
歯がゆい思いをしたそうです。
(この記事検索しましたが、出てきたのは毎日新聞でした。)
経験しているって大きいなと思います。
決してあってはいけないことですが、
東日本大震災の経験が、また新たな災害が起こったときの教訓となるでしょう。
 
今朝の「あさイチ」も震災特集でしたが、
進む復興の中、被災者が
「復興が早ければいいというものでもない」
という発言をされました。
復興は進んでも気持ちがついていかないだろうなと思います。
なかなか喪失感というのは埋まらないのですね。