清水寺千日詣 | 烏丸ママのブログ

清水寺千日詣

清水寺では8月9日から16日まで千日詣が行われています。
1日で千日分のご利益があるそうです。
この日にお参りすると、普段非公開の内々陣に入り、
お札がいただけます。
去年は行けず、古いお札を返していないので、
あさイチに行きました。
あの坂登るの嫌だから、もう車です。
とはいえ、境内も上り坂なので
結局2千歩歩きました。

 

この期間は三重塔が開扉され、大日如来もお参りできます。

柱も極彩色です。

 

拝観券も千日詣り仕様。

バックに写るのは恒例南部風鈴

9時からですが、15分くらい前に着くと、
すでに人が並んでいました。
20分くらい待って参拝できました。
三十三間堂と同じく、内陣には千手観音(お前立)と
二十八部衆がいます。

 

随求堂の胎内巡りは地下に下りて真っ暗だけど

横から見るとこんなふうになっているんだ。

 

濡れ手観音。

水をかけると、観音様が笑っているようですね~

と、隣にいた人と話しました。

 

駐車料金が気になるので、舞台からUターンして、

久しぶりに月照、信海上人の供養塔をお参り。

ともに清水寺成就院の勤王僧で、

安政の大獄で追われた月照は西郷隆盛と入水し、

上人だけが亡くなられます。

信海は月照上人の弟で、江戸で獄死します。

 

その横にある忠僕重助碑

境内には大槻重助の子孫が継ぐ忠僕茶屋があります。

京都市の歴史サイトより

忠僕重助碑 碑文の大意
 大槻重助は丹波国何鹿郡綾部村字高津の人。
若いころから清水寺月照上人に仕えた。
上人は重助の忠実素朴な人がらを愛し,尊王
運動で身分ある人々に接触する時には
常に重助が従った。
安政戊午の年(5年)に上人と
わたし(碑文撰者海江田信義事有村俊斎)と
西郷南洲(隆盛)はともに九州へ落ちのび
重助もこれに従った。
この時重助ははたちであった。
上人と西郷南洲がともに投身したあと
重助は帰京し半年ほど六角獄舎に入れられた。
その後30年以上にわたり上人の墓を守り
供養を絶やさなかった。
明治二十六年四月六日没,享年五十六。
重助の八回忌にあたり,
西郷南洲の弟侯爵西郷従道とわたしは,
同志と碑を成就院内に建立し,
其の忠節を顕彰しようと企画し,
西郷侯は碑のタイトルをみずから書き,
碑文をわたしが執筆することになった。
 重助は寺の下男にすぎないが,
維新の変革に遭遇し,
節を守り毅然として危難にあたり,
その節操はますます堅固なものになった。
そして月照が亡くなった若いころから没するまで
生者に仕えるようにその供養を続けた。
世にまれな忠義であり後世に伝えなければならない。
維新の際の同志はみな世を去ったのに,
わたしは髪がまっ白になりながらかろうじて
生を保っている。
その頃のことを思うと涙を禁じえない。
ここに重助の事を略述し後世に伝えようとするものである。