大宰府政庁跡
緊急事態宣言解除されて初めての週末。
観光地に人が戻ってきたみたいですね。
昨日実家に行くときも、遠足の小学生を見かけたり、
中学校では運動会が行われていたりで、
うれしく思いました。
京都御所では桜が咲いたり、
さて
太宰府の記事もあと2回となりました。
近年の表記は太宰府、古代の表記は大宰府で、
大宰府政庁に向かいます。
そもそも大宰府って、何なの?
という基本的な疑問が。。。
古代西海道と呼ばれていた九州一円を統括していた大宰府は
防衛、外交、貿易などの対外交渉の窓口でした。
長官には大臣、皇族クラスがつき、その権限は大きく
「遠の朝廷」と呼ばれました。(平安時代以降は実際に赴任しなかった。
白村江の戦いで大敗すると、唐、新羅連合軍の脅威にさらされ、
大宰府は那ノ津(博多)から現在地に後退します。
大宰府の前面には水城と呼ばれる土塁を築き
山には城を築きます。
↑水城や城までは行けませんでした。
まず学校前を通りました。
施設跡が点在しています。
とてものどかなところです。
イノシシが出るのか、畑に囲いがされています。
これは黒いお米かな?
政庁跡
25万4000平方メートル、甲子園球場6.4倍。
資料館があるのですが、閉まっていました。
おにぎり食べようかと思いましたが、ベンチがなかったです。
こちらは正面。山が北側です。
菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色をみる」と詠ったように
都に劣らぬ壮大な建物でした。
左手は日本遺産の看板
北側から南を見ます。
春は桜が咲くようです。
この目の前に令和で一躍注目を浴びた場所があります。