乙訓散歩 ①幻の都
長岡京の友人に誘われて、乙訓地区を散歩してきました。
中山修一記念館
中山修一先生の旧宅を記念館にしたものです。
りっぱな日本家屋で
それもそのはず、高槻藩主の旧宅を移築したそうです。
夫の実家に行く通り道にありましたので、
よく前は通っていたのですが、
「中山修一ってだれやねん?」
と、思っていました。
中山修一先生は長岡京を発見した人です。
平城京から平安京に遷る間
長岡京があったらしいということはわかっていましたが、
その存在が実証されておらず
《幻の都》と呼ばれていました。
中山修一先生はちょうと100年前庄屋の家に生まれました。
戦後、農地改革で自作していない農地は没収されていまうので、
自宅から少し離れた農地を耕作しました。
その土地は自宅近くの土地と、区画が違うのです。
もしかしたら、
その違いは条里制と条坊制の違いでは?
(条里制のほうが区画が大きい)
と推測しました。
また付近では大極殿という地名が残っており
「大極殿ではよくごぼうがとれる」などと言われていました。
教師をしていたので、知り合いが多く、
地主からの許可が得やすかったり、
自宅から距離が近いなど
発掘しやすい条件がそろっていました。
昭和29年から発掘し、政庁にあたる朝堂院の会昌門跡を発見しました。
年配の方の教科書には長岡京の記述はなかったと思います。
中山先生がおられなければ、
今も長岡京は幻の都だったかもしれません。
中山修一記念館
中山修一先生の旧宅を記念館にしたものです。
りっぱな日本家屋で
それもそのはず、高槻藩主の旧宅を移築したそうです。
夫の実家に行く通り道にありましたので、
よく前は通っていたのですが、
「中山修一ってだれやねん?」
と、思っていました。
中山修一先生は長岡京を発見した人です。
平城京から平安京に遷る間
長岡京があったらしいということはわかっていましたが、
その存在が実証されておらず
《幻の都》と呼ばれていました。
中山修一先生はちょうと100年前庄屋の家に生まれました。
戦後、農地改革で自作していない農地は没収されていまうので、
自宅から少し離れた農地を耕作しました。
その土地は自宅近くの土地と、区画が違うのです。
もしかしたら、
その違いは条里制と条坊制の違いでは?
(条里制のほうが区画が大きい)
と推測しました。
また付近では大極殿という地名が残っており
「大極殿ではよくごぼうがとれる」などと言われていました。
教師をしていたので、知り合いが多く、
地主からの許可が得やすかったり、
自宅から距離が近いなど
発掘しやすい条件がそろっていました。
昭和29年から発掘し、政庁にあたる朝堂院の会昌門跡を発見しました。
年配の方の教科書には長岡京の記述はなかったと思います。
中山先生がおられなければ、
今も長岡京は幻の都だったかもしれません。