仏教的に悟りとは、
自分と世界との境界が消失するような、
即ち、小我の覆いが消え、
宇宙大の自己に目覚めることにあります。
これはとかく何かになるわけではなく、
ペルソナ(仮我)はペルソナであると見極め、
本来の自己(大我)に覚めることです。
そのヒントとなるのが三法印や、縁起の法です。
即ち悟りとは縁起の法を極めることとも言えます。
それは他力を思い知ることでもあり、
在り難さを思い知ることでもあります。
諸法はお互いに寄りかかりあって
存在している のだから、実体など持たない。
すべては縁あって起こっています。
私が私によって私を構成しているものなど
何もありません。 数多の縁を受けて、
はじめて私という存在(法) は
その様態を一時的に保っています。
しかしそれも五蘊仮和合、
縁尽きれば 散逸するに過ぎない無常なる我です。
この世界は様々な様態(機縁)があり、
それは様々な差異で現れますが、
それは 世界を回し、動的であるための機縁の一つ一つです。
それは四種曼荼羅であり、五智無際智であります。
すべては縁あって起こっています。
諸法はお互いに寄りかかりあって
存在している のだから、実体など持たない。
すべて実体など持たない、という事は、
あるものはある、 ただある一なる世界があるだけ、
という事です。
世界は、大宇宙の根源の、
思惟の思惟であり、慈悲の慈悲であり、
それは遍く対立的調和結合です。
そもそも実体など持たない「我々」は、
その小我のペルソナをオフにすれば、
たちまち そこに帰すことが出来るのです。

