知とは何か?
「何か」、を知る、捉える、ことである。
そこには「対象」(存在)が、
既に「前提」されている。
存在なしで知、なんてある?
存在とは何か。
存在、を存在、として認めるのは、
それを認識するものである。
それを認めるものが無ければ、
「そんざい」、という概念(観念)さえもない。
そもそも己一人だけ、ロンリーであったとして、
「オ、オレはソンザイしている!」
…と宣言したところで、
それは存在していると言えるのか?
それ以前に、「オレ」とか、「存在」とか、
独力であって、
そ・ん・な・概念(観念)・は・発生・する・のか?、と。
<六大無碍にして常に瑜伽なり。>
空海は言っているわけだが、
実は知と存在は、究極的には同じなのだ。
認識と、時空間、現象世界の諸要素に
隔たりは無い、というわけだ。
(密教的には、現象世界は、
大宇宙(大日如来)の智慧の広がりと捉える)
そしてその「知」というものが、
「主観的観念」に過ぎないならば、
存在もまたそうであり、実体などないのだ。
<はじめにロゴスありき。>
聖書にもあるが、存在とはロゴス(言語、理法)
により限定、生ずるわけだ。
空海が言う、声字実相(声字⇔実相)の意味も
こう見れば捉えられるかもしれない。
カタカムナの、固有の振動と対応する現象の
関係の必然性も理解できるかもしれない。
実相と知(概念)は、対応している、と。
しかし、世界は、如来が見るか、凡夫が見るかで、
見え方、捉え方は全く違う、とは、
仏教ではよく言われるところではある。
究極的には知と存在は同じ事。
世界とは、知とか、ロゴス(理法)の事。
それが、主観的観念や、法式に過ぎないとすれば、
存在というものも、観念と同じで、
実体など持たないということだ。
結局無である、空であるという事である。
三界唯心。五蘊仮和合。
無自性であり、実体などない世界に、
知で持って現象を生じさせているのは、
他でもない、認識者である。
認識者の認識する、という縁が、
世界を現出させている。
今一瞬の、自分の心の様々な要因が、
世界を現出させている。
つまり、もっと言えば、
世界とは自分の心の事である、
という事である。
存在、世界、というもの自体が、
五蘊というカタマリ
観念のカタマリであるという事なら、
そう、実は、我々は、存在は、
実在なんてしないということである。
すべては実体などなく、無自性である。
不変なものなどなく、
すべてのものは寄りかかりあって
存在しているのだから、実体を持たない、(無自性)
というのは仏教の基本的な考え。
(諸行無常・諸法無我)
しかし、その無自性のワタシが、
実体化しているのは、
数多の認識(縁)が私に向けられている
からなのだろう。
<六大無碍にして常に瑜伽なり。>
六大(宇宙のすべて)はいつでも隔たりなく
相応渉入している。(相応じて渉り入る)
その中に私がいる。
賢治風に言えば、
わたくしといふ「現象」は、
仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明、
というわけだ。
みんなと一緒に明滅している…。
世界は神の認識、仏の智慧の広がり。






