存在と場と法 | ☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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  ~ The Moon is always with us ~

 

存在と場。

 

存在は、場の影響を受けるわけだが、

その場は、存在が集まってできている。

場は存在によってつくられる。

これらは双方向的関係である。

 

六大無碍にして常に瑜伽なり。

 

その存在と場をひっくるめた表現が

「法」という表現になるかな?

(法(ダルマ)にはそもそも存在という意味もある。

サンスクリット語の原義は空間を埋めるもの、

間を満たすもの、といったニュアンスだ。)

 

その法というものは、

認識者、表象者の表象方式でもあり、

それは五大との相互作用で生じているもので、

認識と対象の合成としてある。

 

<六大無碍にして常に瑜伽なり。>

 

認識と対象、時空間は、

常に関係して離れず同時にあり、

法を生じさせる。

どちらが優位とかそんなことは無く、

すべて必要で、それが相まって

世界は現出している。

 

密教的には、

現象世界は、大日如来の智慧が

具現化した世界である。(大日如来の法界)

究極的には智と存在は、同じことである。

 

 

天地、我を待つて覆載し、日月我を待つて運行し、

四時我を待つて変化し、万物我を待つて発生す。

大いなるかな心や。

 

この栄西の言葉は、

この現れ出る世界の成立に、

その表象者である自分が主として関わっていること

を堂々と述べている。

 

すべて「無自性」であるこの現象世界において、

心を関わらせ、それらを現出させているのは、

観察者の観察するという行為による縁、

それは自分自身の心である、と。

 

三界唯心、この現れ出る世界には必ず、

それを現出させる心の作用が

関わっているのである。

 

この世界を生じさせているのは結局

自分自身の心である、と。

 

 

そしてその心の働き(五蘊)を、

「五蘊皆空なり」と見極める智慧が

般若の智慧である。(照見五蘊皆空)