存在と場。
存在は、場の影響を受けるわけだが、
その場は、存在が集まってできている。
場は存在によってつくられる。
これらは双方向的関係である。
六大無碍にして常に瑜伽なり。
その存在と場をひっくるめた表現が
「法」という表現になるかな?
(法(ダルマ)にはそもそも存在という意味もある。
サンスクリット語の原義は空間を埋めるもの、
間を満たすもの、といったニュアンスだ。)
その法というものは、
認識者、表象者の表象方式でもあり、
それは五大との相互作用で生じているもので、
認識と対象の合成としてある。
<六大無碍にして常に瑜伽なり。>
認識と対象、時空間は、
常に関係して離れず同時にあり、
法を生じさせる。
どちらが優位とかそんなことは無く、
すべて必要で、それが相まって
世界は現出している。
密教的には、
現象世界は、大日如来の智慧が
具現化した世界である。(大日如来の法界)
究極的には智と存在は、同じことである。
天地、我を待つて覆載し、日月我を待つて運行し、
四時我を待つて変化し、万物我を待つて発生す。
大いなるかな心や。
この栄西の言葉は、
この現れ出る世界の成立に、
その表象者である自分が主として関わっていること
を堂々と述べている。
すべて「無自性」であるこの現象世界において、
心を関わらせ、それらを現出させているのは、
観察者の観察するという行為による縁、
それは自分自身の心である、と。
三界唯心、この現れ出る世界には必ず、
それを現出させる心の作用が
関わっているのである。
この世界を生じさせているのは結局
自分自身の心である、と。
そしてその心の働き(五蘊)を、
「五蘊皆空なり」と見極める智慧が
般若の智慧である。(照見五蘊皆空)


