即身成仏義 二頌八句後半 直観意訳 | ☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

  ~ The Moon is always with us ~

 

__

 

六大無礙にして常に瑜伽なり (体)

四種曼荼各離れず (相)

三密加持すれば速疾に顕わる (用)

重重帝網なるを即身と名づく (無碍)

 

法然に薩般若を具足して (法仏の成仏)

心数心王刹塵に過ぎたり  (無数)

各々五智無際智を具す (三顕輪円)

円鏡力の故に実覚智なり (所由)

 

即身成仏義 二頌八句

 

___

 

法然…自然にそのままに

薩般若…世界に遍くわたる仏の智恵の事。

サルヴァジュニャーター(Sarva-Jnātā)の音写で、

一切智と訳す。薩般若海という言葉でも使う。

心数心王…心本体と、その作用。

刹塵…無数。

五智無際智… この縁起世界で回る、

それぞれの機縁、役割、機能の事。また創造性。

円鏡力…諸物(諸仏)が互いに関わり合い、

縁あって起こっている様を感じ、観ずる智慧。

すべてを見通す照観力。

実覚智…小我なく、世界のすべてを己と観ずる覚者の智慧。

あらゆる縁が織りなす、見事な縁環の世界、

縁起の世界を無理なく見渡す智は、それ実覚智なり。

(自性なく無我であり、仏と一致している視点)

 

※↓前半句の意訳

__

 

 

 

後半の「成仏」の意を敷衍する4句は、

前半句の、ありのままそのままの仏の智慧(存在智)を

言語化し、捉え直す段階を示しているように思う。

「即身」も「成仏」もどちらも「仏」を意味し、

即身」は、そのままありのままのレベルの仏。

「成仏」は、智で改めて整理し、観自在となった仏。

 

自然の他の存在物も、

そのままで仏の存在であるが、

人間は、知で持って捉え直すところ、

そしてその智を他者(諸仏)に伝えて行くところに、

人間たる特性がある。

 

★法然の薩般若

 

智(智慧)とは、この世界の見事な現れ、そのことである。

この既に現れ出ている素晴らしい世界に

「仏の智慧と技」を見る

我々は、既に、凄まじい、

驚くべき世界が広がっているというのに、

気づいていない。

また、まさにそれを自分自身が表出しているというのに、

衆生はそれに気づかない。これを衆生秘密と呼ぶ。

 

心数心王刹塵に過ぎたり

 

「諸物」は「諸仏」(一切衆生)であり、

仏は諸仏で、諸仏は仏である。

諸仏の集合が仏であり、

諸仏の知の集合が、また仏の智である。

また、諸仏は常に相関して知を共有している。

 

その「諸仏」の数多の認識を含めた世界(識大+五大)が、

仏の体(胎)内で通り過ぎる。

世界は諸仏のアイディアでできている。

仏はその総体である。フラクタル構造で捉えると、

諸仏の中にそれぞれの六大がある。

 

各々五智無際智を具す

 

そもそも知とは何か?

それは存在があってこそではないのか。

知の対象の存在が無かったら、知も何もないだろう?

だから、そもそも、

「この世界の見事な現れ自体が仏の智」なのである。

その「実に見事な現れ」をどうとらえ整理するか。

我々は時空間・重力という様式(識大と五大の関係)で

実際、世界を表象(re-presentation)している。

これは「薩般若」(一切智)である。

それを内省的に言語で整理できるのは、

我々が、諸法、諸イデアを分有し、

識大と五大の無碍なる関係力により、

重時空間という形式を備えているから、(仏と自己相似形)

把握できると考えられる。

自分自身が有しているもの、用しているものは、

内省的に言語化できる、という事だ。

その代表的分類が「五智無際智」なのであろう。

ただ、ここで注意したいのは、

識大と五大は不可分であるということ。

今は説明のために便宜上分けただけである。

 

 

 

★円鏡力の故に実覚智なり

 

前句の「重々帝網」とは、現代なら宇宙の諸要素が、

宇宙の自己相似形、フラクタル構造であることも

示していると思われる。

直観的には仏の細胞の一つ一つというイメージ。

この「重々帝網」に対応する後句の「円鏡力」の智は、

その自己相似形フラクタル構造を自覚し、

能動的にも諸仏(諸法)の響きを観じ、

すべての存在の想いを想い知ることにあると思われる。

それは、大慈悲心でもある。

つまり、覚者は自ずと慈悲深いという事。

 

各々五智無際智を具すとは、この仏の世界を、

あらゆる響きを使って表現できる、ということ。

例えば、「言語」で表現できるという事。

言語だけではない。音楽でもいいし、

絵画、彫刻でもいい。

現に、この自然世界の各々生命力の発露自体も、

智慧のバリエーションと言えるだろうか。

 

五大に皆響きあり 
十界に言語を具す 
六塵ことごとく文字なり 
法身はこれ実相なり

 

六塵はことごとく言語化できる情報なのだから、

それは表現(創造)し直せるのである。

(それは良くも悪くも、無明な創造にもなる)

 

__

 

 

この世界の現れ自体が、仏の密法である。(如来秘密)

その秘密を解くのが密教だ。如来秘密を解く。

昔、ダヴィンチコードが流行ったが、

この世界の如来秘密はその比ではないのである。

 

我々は既に、宇宙を「再現」している。

一人一宇宙。つまり、我々も、仏の薩般若を

そのままで有しているのだ。

 

仏の智慧の結晶である四種曼荼羅の世界を

左脳で分析し、取り出し、再表現し、

新たな創造をする。それが我々の宇宙を広げる。

 

六大は、大日如来の法身が現象化し、

展開される「場」や、「ツール」のようなイメージでもある。

(こういうとヘーゲルの絶対精神っぽいか…)

四種曼荼羅はその展開表現である。

音と形と意(三密)が表現装置というわけだ。

それら(諸仏)は仏と自己相似形で、互いに響き合っている。

そして世界は五智無際智により想像・創造され、

拡大している。

諸仏の創造の総合が、仏という統一体である。

そもそも、生物(観測者)のいない宇宙は存在するのか、

という哲学の疑問もこれで解けないだろうか。

 

__

 

 

「即身成仏」は、仏の智慧と慈悲の世界が

現れ出る原理・カラクリを捉えた、

存在論、認識論、自我論、時間論といった、

究極の形而上学である。

それがこの可能世界・可能無限の世界を説明する。

諸仏の五種無際智が、可能無限の世界を拡大している。

 

この即身成仏の四句は、

我を滅した仏の視点、

個のレベルの自我の視点、

両方ないと理解は難しいのだろう。

 

「俺は俺の力で生きている!」

と思っている傲慢な人間は、

一度自身が縁起存在で、独力においては全く不具である、

ということを思い知る必要があるかもしれない。

すべては縁あって起こっている。

小我を滅するために、冷めた視点で、

諸物は仏の智慧が展開する場や、ツールに過ぎない。

見る視点があってもいいかもしれない。

我々は宇宙の大流動の一過程、一部分に過ぎない。

(されど仏の素子ゆえ、薩般若を有する)

 

__

 

 

即身成仏の「即身」とは、縁起の法を極め、無我に帰し、

縁起を生きること、「機縁」を生きることそのことである。

それは仏の法身に帰ることに他ならない。

即身成仏の「成仏」は、この宇宙の構造(重々帝網)を

智的(円鏡力)に捉え、能動的にも諸仏の響きを観じ、

すべての存在の想いを思い知ることにあると思われる。

それは、大慈悲心でもある。

 

我々は誤解している。何かが無いと。

何かが必要であると。

しかしそんなバカな。我々は縁起世界にあり、

世界を回す機縁としてピタリとはまっており、

また自身の宇宙を表出しているというのに??

 

この世界の和・環・輪を観よ。共生を観よ。

お互いがお互いの機縁となり、上手く回っている。

四種曼荼羅無碍なり。円かなり。

問題など何も起こっていない。

問題だと思うあなたの心だけがある。

あなたが誤った知で、問題だ、と思っているだけで、

それは仏から分離した小我の無明のなせる果である。

そこは重々帝網なる世界が現れ出ているのみ、

仏の智慧の世界が巡っている。

心を無我に帰せば、あるもはある。それだけだろう?

 

無常無我。世界に様々な差異はあれども、

ゆえに世界は縁環している。

互いに影響し合っており、密接に関連して現れ出ている

世界のすべては仏の素子であり、

仏の性質を有している我々は仏と自己相似形である。

ゆえに仏と心を合わせれば、

瞬時に共鳴し、シンクロし、仏の心に帰する

ことができる。

自性なく、世界のすべてに悉く縁起を観ず。

そしてすべての存在に思いをはせることができたら、

それは即身成仏と呼べよう。

仏の素子で、自己相似形の諸仏は、

「他の自分たち」と共鳴して、自分たちを

感じることができるのである。

 

五大に響きあり。

それは仏の目線だと、

自作自演の自己共鳴ということになる?

 

 

円鏡力の故に実覚智なり。