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六大無礙にして常に瑜伽なり (体)
四種曼荼各離れず (相)
三密加持すれば速疾に顕わる (用)
重重帝網なるを即身と名づく (無碍)
法然に薩般若を具足して (法仏の成仏)
心数心王刹塵に過ぎたり (無数)
各々五智無際智を具す (三顕輪円)
円鏡力の故に実覚智なり (所由)
即身成仏義 二頌八句
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法然…自然にそのままに
薩般若…世界に遍くわたる仏の智恵の事。
サルヴァジュニャーター(Sarva-Jnātā)の音写で、
一切智と訳す。薩般若海という言葉でも使う。
心数心王…心本体と、その作用。
刹塵…無数。
五智無際智… この縁起世界で回る、
それぞれの機縁、役割、機能の事。また創造性。
円鏡力…諸物(諸仏)が互いに関わり合い、
縁あって起こっている様を感じ、観ずる智慧。
すべてを見通す照観力。
実覚智…小我なく、世界のすべてを己と観ずる覚者の智慧。
あらゆる縁が織りなす、見事な縁環の世界、
縁起の世界を無理なく見渡す智は、それ実覚智なり。
(自性なく無我であり、仏と一致している視点)
※↓前半句の意訳
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後半の「成仏」の意を敷衍する4句は、
前半句の、ありのままそのままの仏の智慧(存在智)を
言語化し、捉え直す段階を示しているように思う。
「即身」も「成仏」もどちらも「仏」を意味し、
「即身」は、そのままありのままのレベルの仏。
「成仏」は、智で改めて整理し、観自在となった仏。
自然の他の存在物も、
そのままで仏の存在であるが、
人間は、知で持って捉え直すところ、
そしてその智を他者(諸仏)に伝えて行くところに、
人間たる特性がある。
★法然の薩般若
智(智慧)とは、この世界の見事な現れ、そのことである。
この既に現れ出ている素晴らしい世界に
「仏の智慧と技」を見る。
我々は、既に、凄まじい、
驚くべき世界が広がっているというのに、
気づいていない。
また、まさにそれを自分自身が表出しているというのに、
衆生はそれに気づかない。これを衆生秘密と呼ぶ。
★心数心王刹塵に過ぎたり
「諸物」は「諸仏」(一切衆生)であり、
仏は諸仏で、諸仏は仏である。
諸仏の集合が仏であり、
諸仏の知の集合が、また仏の智である。
また、諸仏は常に相関して知を共有している。
その「諸仏」の数多の認識を含めた世界(識大+五大)が、
仏の体(胎)内で通り過ぎる。
世界は諸仏のアイディアでできている。
仏はその総体である。フラクタル構造で捉えると、
諸仏の中にそれぞれの六大がある。
★各々五智無際智を具す
そもそも知とは何か?
それは存在があってこそではないのか。
知の対象の存在が無かったら、知も何もないだろう?
だから、そもそも、
「この世界の見事な現れ自体が仏の智」なのである。
その「実に見事な現れ」をどうとらえ整理するか。
我々は時空間・重力という様式(識大と五大の関係)で
実際、世界を表象(re-presentation)している。
これは「薩般若」(一切智)である。
それを内省的に言語で整理できるのは、
我々が、諸法、諸イデアを分有し、
識大と五大の無碍なる関係力により、
重時空間という形式を備えているから、(仏と自己相似形)
把握できると考えられる。
自分自身が有しているもの、用しているものは、
内省的に言語化できる、という事だ。
その代表的分類が「五智無際智」なのであろう。
ただ、ここで注意したいのは、
識大と五大は不可分であるということ。
今は説明のために便宜上分けただけである。
★円鏡力の故に実覚智なり
前句の「重々帝網」とは、現代なら宇宙の諸要素が、
宇宙の自己相似形、フラクタル構造であることも
示していると思われる。
直観的には仏の細胞の一つ一つというイメージ。
この「重々帝網」に対応する後句の「円鏡力」の智は、
その自己相似形フラクタル構造を自覚し、
能動的にも諸仏(諸法)の響きを観じ、
すべての存在の想いを想い知ることにあると思われる。
それは、大慈悲心でもある。
つまり、覚者は自ずと慈悲深いという事。
各々五智無際智を具すとは、この仏の世界を、
あらゆる響きを使って表現できる、ということ。
例えば、「言語」で表現できるという事。
言語だけではない。音楽でもいいし、
絵画、彫刻でもいい。
現に、この自然世界の各々生命力の発露自体も、
智慧のバリエーションと言えるだろうか。
五大に皆響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり
六塵はことごとく言語化できる情報なのだから、
それは表現(創造)し直せるのである。
(それは良くも悪くも、無明な創造にもなる)
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この世界の現れ自体が、仏の密法である。(如来秘密)
その秘密を解くのが密教だ。如来秘密を解く。
昔、ダヴィンチコードが流行ったが、
この世界の如来秘密はその比ではないのである。
我々は既に、宇宙を「再現」している。
一人一宇宙。つまり、我々も、仏の薩般若を
そのままで有しているのだ。
仏の智慧の結晶である四種曼荼羅の世界を
左脳で分析し、取り出し、再表現し、
新たな創造をする。それが我々の宇宙を広げる。
六大は、大日如来の法身が現象化し、
展開される「場」や、「ツール」のようなイメージでもある。
(こういうとヘーゲルの絶対精神っぽいか…)
四種曼荼羅はその展開表現である。
音と形と意(三密)が表現装置というわけだ。
それら(諸仏)は仏と自己相似形で、互いに響き合っている。
そして世界は五智無際智により想像・創造され、
拡大している。
諸仏の創造の総合が、仏という統一体である。
そもそも、生物(観測者)のいない宇宙は存在するのか、
という哲学の疑問もこれで解けないだろうか。
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「即身成仏」は、仏の智慧と慈悲の世界が
現れ出る原理・カラクリを捉えた、
存在論、認識論、自我論、時間論といった、
究極の形而上学である。
それがこの可能世界・可能無限の世界を説明する。
諸仏の五種無際智が、可能無限の世界を拡大している。
この即身成仏の四句は、
我を滅した仏の視点、
個のレベルの自我の視点、
両方ないと理解は難しいのだろう。
「俺は俺の力で生きている!」
と思っている傲慢な人間は、
一度自身が縁起存在で、独力においては全く不具である、
ということを思い知る必要があるかもしれない。
すべては縁あって起こっている。
小我を滅するために、冷めた視点で、
諸物は仏の智慧が展開する場や、ツールに過ぎない。
見る視点があってもいいかもしれない。
我々は宇宙の大流動の一過程、一部分に過ぎない。
(されど仏の素子ゆえ、薩般若を有する)
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即身成仏の「即身」とは、縁起の法を極め、無我に帰し、
縁起を生きること、「機縁」を生きることそのことである。
それは仏の法身に帰ることに他ならない。
即身成仏の「成仏」は、この宇宙の構造(重々帝網)を
智的(円鏡力)に捉え、能動的にも諸仏の響きを観じ、
すべての存在の想いを思い知ることにあると思われる。
それは、大慈悲心でもある。
我々は誤解している。何かが無いと。
何かが必要であると。
しかしそんなバカな。我々は縁起世界にあり、
世界を回す機縁としてピタリとはまっており、
また自身の宇宙を表出しているというのに??
この世界の和・環・輪を観よ。共生を観よ。
お互いがお互いの機縁となり、上手く回っている。
四種曼荼羅無碍なり。円かなり。
問題など何も起こっていない。
問題だと思うあなたの心だけがある。
あなたが誤った知で、問題だ、と思っているだけで、
それは仏から分離した小我の無明のなせる果である。
そこは重々帝網なる世界が現れ出ているのみ、
仏の智慧の世界が巡っている。
心を無我に帰せば、あるもはある。それだけだろう?
無常無我。世界に様々な差異はあれども、
ゆえに世界は縁環している。
互いに影響し合っており、密接に関連して現れ出ている
世界のすべては仏の素子であり、
仏の性質を有している我々は仏と自己相似形である。
ゆえに仏と心を合わせれば、
瞬時に共鳴し、シンクロし、仏の心に帰する
ことができる。
自性なく、世界のすべてに悉く縁起を観ず。
そしてすべての存在に思いをはせることができたら、
それは即身成仏と呼べよう。
仏の素子で、自己相似形の諸仏は、
「他の自分たち」と共鳴して、自分たちを
感じることができるのである。
五大に響きあり。
それは仏の目線だと、
自作自演の自己共鳴ということになる?
円鏡力の故に実覚智なり。





