我々は自己の明晰判明さを求めて行為する。
それは世界が「未知なる自世界」だからだ。
奇妙な表現であるが。
認識者⇔実在X
(世界)
世界とは認識者と実在との関係においてはじめてある。
自分の中にないものは決して諸物として抽出できない。
つまり世界は、自分の中にあるものを
投影したもの(自分による限定)であるのだ。
宇宙を体感している我々はつまり、
宇宙の全イデアを内に有しているから、
宇宙を抽出、投影できている。
伝統的な哲学の真理とは、認識と対象の一致
であるが、このスッキリしない認識と対象とを分ける
構造をやめて、世界を自分の中にあるものの投影
と考えると、真理とは「自身の隠蔽性の解放」
ということになる。
しかし我々は自世界について、
なぜか、それが内部投影であるにもかかわらず、
それを知らないまま生を投げ出されている。
だから隠蔽性の解放という奇妙な表現になる。
自世界の明晰判明さ、
つまり自分自身の隠蔽性の解放が一つのベクトルとなり、
我々は行為を促されている。
「ニャンコのかわいさは、君の中のかわいさの象徴なのさ。」

