シンクロニシティ。
偶然の一致。
我々は何か特別な現象のように、
思っているわけだけど、
それって単に「我々生命のありよう」を、
ことさら大袈裟に言っているだけ
なんじゃないのだろうか。
本当は
水があることも、空気があることも、
緑があることも、生物たちがいることも、
月があることも、太陽があることも、
すべては私たちが生きる舞台として
「受け取りが予約」されている、
「恵み」なのではないだろうか。
その一部を取り上げて、ことさらシンクロとか
呼んでいるだけなのではないだろうか。
「求めよ、さらば与えられん」
思えば、我々が生きるに適した環境が
こうも見事にそろっているのって、
不可思議な事態であり、
知を忘れ、謙虚に思いを馳せてみれば、
出来すぎな世界なわけである。
よもや、そこに既に神の技を見て取るのが
もはや自然であり、この確信が深まると
その恵みの世界で心の安らぎを得ることが
できるかもしれない。
それは求めれば与えられる世界。
我々がそちらを向きさえすれば、
いつでもパスの準備ができている。
我々を生かすように施されている、
そんな世界に我々はいるのではないか。
人以外の存在物たちの生はおそらく、
その生の必然性の中で、
スムーズに生が流れているのだろう。
その生の本質が望む世界が与えられていて、
それに沿ってその生は流れている。
一方、人間の場合、
「シンクロ」と特別視するくらいに、
自己目的的に、無時間的にスムーズに
生が流れないのは、人の意識が「余計な知」、
はたまた「何かしらの観念にまつわられた妄想」により、
「混濁」していて、
何かの不自然さがその生の文脈に「絡まって」おり、
生が滞った状態になっているのだろう。
しかしそこで、
シンクロニシティとかいうものが、
我々が生きているこの恵みの世界
そのもののあり様こと、
また、それは、私たちの生のあり様そのもののことと
気づけたならば、そして
自分を包むその「お蔭さま」の世界に
心を馳せることができたならば、
自分自身もまた、この宇宙のシンクロニシティの
要素としてあることに気づき、
ゆったりとした、大きな流れに乗る、
安らいだ気持ちになれるかもしれない。
「あるものはある」
世界に境界を引いて知で分ける
我々人間だけが、勝手に何か誤解している。
私たちは数多、えにしある恵みの世界で、
シンクロニシティで生きているだ。
一斉の顚倒夢想を遠離して、
この宇宙の大流動の御胸の中で、
与えられた人生文脈の中、ふつふつと起こる
生命の喜びを胸に、
恵みという名のシンクロを受け取って
生きていけば、
我々の生はそれだけでいいのではないだろうか。


