「美しさ」とは、世界に存在するものの様相、在り様のことで、
とかく、諸行無常のプロセスにおいて、その最活性期を指して
人間がそう名状した様相のことである。
とかく、諸行無常のプロセスにおいて、その最活性期を指して
人間がそう名状した様相のことである。
美しさとは、神の創造、存在の形相のルールみたいなものであり、
それは調和であり、認識主体が彼我一体に同調する対象に対して認める、
認識の快のことである。
言わば、自分の中にある心地よさを相手に見ているのだ。
(人工物に対してはこれに限らない)
それは調和であり、認識主体が彼我一体に同調する対象に対して認める、
認識の快のことである。
言わば、自分の中にある心地よさを相手に見ているのだ。
(人工物に対してはこれに限らない)
自然物において、とかく人間においてそうは思えない
個体に出会うことがあるかもしれないが、
それは、それぞれの生育環境において、魂にいろんな要素がくっついて、
もともとの状態がわからなくなるくらいそれが奇異な形になってしまっているから、
たまたまそう思えない状態(ある種の人工物)にあるだけである。
もしくは自分に中にある恐れを対象に投影しているだけかもしれない。
赤子の状態は皆「純粋無垢」である。
個体に出会うことがあるかもしれないが、
それは、それぞれの生育環境において、魂にいろんな要素がくっついて、
もともとの状態がわからなくなるくらいそれが奇異な形になってしまっているから、
たまたまそう思えない状態(ある種の人工物)にあるだけである。
もしくは自分に中にある恐れを対象に投影しているだけかもしれない。
赤子の状態は皆「純粋無垢」である。
また、人ぞ思う一見美しく思えない自然存在についても、
人間という種がそう思うだけであって、その存在の様相に
絶対的なレッテルは勝手に付けられようもない。
「それはただそうあるだけ」である。
人間という種がそう思うだけであって、その存在の様相に
絶対的なレッテルは勝手に付けられようもない。
「それはただそうあるだけ」である。
諸行無常のプロセスにおいて、形が失われ、
その個体の形相の調和を失いつつある存在物にしても、
全体の体系の中の循環の一部分としてみれば、
それは全体の体系の中の一つの流れであり、
それは美しき調和の世界の一部を見ているだけであり、
それはまた美しさ(調和)の世界の流れ一要素で、
それもまた美しさの成分と言えるのだ。
その個体の形相の調和を失いつつある存在物にしても、
全体の体系の中の循環の一部分としてみれば、
それは全体の体系の中の一つの流れであり、
それは美しき調和の世界の一部を見ているだけであり、
それはまた美しさ(調和)の世界の流れ一要素で、
それもまた美しさの成分と言えるのだ。
川の中の流れの一部分を指して、美醜を命名しているようなものである。
ギリギリまで表現の抽象度を純化すると、たぶん「真善美」に区別はなくなる。
(存在の厳然だけである)
(存在の厳然だけである)