充足理由律と存在の形式 | ☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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  ~ The Moon is always with us ~

 

充足理由律。

昔それなりに考えたのだが、
単に当たり前のことを言っているようで、
何が問題なのかよくわからなかった。

「あれだろ…。哲学者が何でもない事柄をさも
難しい問題のようにありがたがってる、あれだ。。」

と、「あのぶどうは酸っぱい」的に放っぽって
気にしないことにしていたのだが。

最近、物事を因果関係で捉えようとするのは、
時間という形式で存在している人間の性(さが)のような
気もしてきた。

人は、人間の認識の型に当てはめて、
世界を把握しているわけだから、と。

 

充足理由律って自分の認識の形式とか、

判断の形式に当てはめて考える傾向、

ってことでいいんだろうか。

 

哲学と数学が得意な人が、

「数学はことごとく総合判断だ」

と言っていた。

宇宙の起源について問われると、

「そんなこと分かりっこないから、

不思議さを増長するしかない」とも。

宇宙の起源を探求する物理学者に皮肉交じりに

「時間というものは人間の側から見ないと意味ない」

とも言っていたが、

つまり、自然性の法則を解くということは、

自分の認識方式の限界を知ることに

なるってことだろうか。



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「クオリアと幻肢痛」というトピックで一考してみた
のだが、幻肢痛も、過去想起/未来予期による喜怒哀楽も、
同じようなもんなんじゃないか、という考えが浮かぶ。

時間があるってのが幻想で、今この瞬間以外は
妄想であるならば、過去想起や、未来想定による
喜怒哀楽は、それもファントムペイン、ファントムジョイ
なわけである。

まあ、肉体維持のために蓄えた「危険インデックス」から
危機を知らせる機能は、生きていくうえで適応的で、
あってしかるべきなわけだが。

存在形式をメタ的に眺めるのは骨が折れる。
我々は常に既に、すべてを知りえている(捉えている)
という方法でしか、存在していないのではないか、
という問い。

我々は何かを知った時、「わかった」と
過去形を使うわけだが、表面意識の働く範囲は、
意外と、というか「だいぶだいぶ小さい」

と認識している人は意外と少ない。

ほとんど他力。受動的。
存在している上で、ほとんどのことは既に与えられている。
(その上にペルソナが乗る)

…と、言葉上でいうのは簡単だが、
絶対他力の状態まで、それを確信するには覚悟もいる。
我々はほとんど受動的に生きているのに、
一人前の顔をしている。

諸法無我に違いないのに。

絶対他力。
単純な念仏思想を昔は舐めていたのだが、
やはり親鸞・法然上人はすごいと思うわ。
この思想は初級から上級まで間口が広い。
(その分偏重もされやすい)

覚悟は悟りなのか。
私にはお二人が他力の海へ断崖から
ダイブしているようにさえ見える。
私にはね。
当然、確信の度合い(覚悟)が天地ほど違うわけだが。

上人たちにとっての永遠の汝は阿弥陀仏。
ルターにとってのそれは恵みの神。(恩寵義認)

(両者の思想は似ている)

私にとってのそれは、ルターからヒントを得て、
やっぱり自然世界かな。
もっと地球に親密さを感じて、寄り添う心持ちを
得られれば、完璧な宇宙を感じられるかもしれない。