トランスジェンダー(性別不合/Gender Incongruence:GI)として生きる人々にとって、思春期に訪れる二次性徴は、単なる「身体の変化」ではありません。
それは、自分自身が、自分ではなくなっていく感覚です。

あえて例えるなら、ある朝突然、鏡の中に「自分が最も恐怖を感じる存在」が映っているような感覚に近いかもしれません。
巨大な蜘蛛や蛇になってしまった自分を見た時のように、鏡を見るだけで吐き気や動悸を覚え、精神が崩壊しそうになる――。

それほどまでに、身体と自己認識との乖離は深刻です。

私自身、中学生から高校生にかけて、声変わり、ヒゲ、骨格の男性化などが進んでいくことに強い恐怖を感じていました。
特に骨格の変化は、一度進行すると完全には元に戻せない部分も多く、「未来そのものが閉ざされていく」という絶望感につながっていました。

この苦痛は、単なる“思春期の悩み”ではありません。
近年の研究では、性別違和を抱える若年者において、抑うつ、不安、自傷行為、自殺念慮のリスクが高まることが示されています。
つまり、適切な理解や支援がない状態は、時に命に関わる問題となり得るのです。

しかし現代の医療は、その絶望を「不可逆な運命」ではなく、「時間をかけて考えられる選択肢」へと変えつつあります。

■ 二次性徴を一時的に止める「GnRHアゴニスト治療」

現在では、GnRHアゴニスト(性腺刺激ホルモン放出ホルモン誘導体)を用いることで、思春期に始まる二次性徴を一時的に抑制する治療が行われています。

この治療の目的は、“性別を決めつけること”ではありません。

むしろ、不可逆的な身体変化が進む前に、一度立ち止まり、本人が安心して自分自身と向き合う時間を確保することにあります。

声変わりや骨格の男性化など、一部の変化は後から修正が難しいため、早期の介入によって将来的な苦痛を軽減できる可能性があります。

国際的な診療ガイドライン(WPATH Standards of Care Version 8 など)でも、適切な評価と支援のもとで行われる思春期抑制治療は、性別違和を抱える若者に対する選択肢の一つとして位置づけられています。

■ 未来を築く「HRT(ホルモン補充療法)」

その後、本人の意思や継続的な心理・医学的評価を踏まえながら、HRT(Hormone Replacement Therapy:ホルモン補充療法)へ進む選択肢があります。

トランス女性の場合、女性ホルモン療法によって、皮膚や体脂肪分布、体型などに女性的変化が現れます。
また、思春期抑制を経てからHRTへ移行することで、より本人の性自認に近い身体的特徴を得やすくなる可能性があります。

もちろん、医療には慎重な判断が必要です。
身体的影響や将来的な選択について、専門医・心理職・家族と十分に話し合うことが大切です。

それでも、「何も選べないまま身体が変わっていく」のと、「自分の人生について考える時間が与えられる」のとでは、心への負担は大きく異なります。

【なぜ、この話を伝えたいのか】

私がこの体験を書く理由は、自分と同じ苦しみを抱える子どもを、一人でも減らしたいからです。

保護者の皆さんへ。
もし、お子さんが身体の変化に極端な拒否感を示しているなら、それは単なる“反抗期”や“思春期の戸惑い”ではないかもしれません。

「この身体になっていくのが怖い」
「鏡を見るのがつらい」
「消えてしまいたい」

それは、生きることそのものに関わる切実なSOSである可能性があります。

そして今は、医療や支援の選択肢があります。

早い段階で正しい知識にアクセスできることは、子どもたちにとって“生き延びるための希望”になり得ます。

私たちが望んでいるのは、特別扱いではありません。

ただ、自分らしく生きるためのスタートラインに、少しでも自然な形で立ちたい。
そのために必要な情報と支援へ、早く辿り着ける社会であってほしいのです。

【「正義」という名の悪魔の囁き】・・・『デスノート』が突きつける現代社会の鏡

 

漫画『デスノート』は、単なるファンタジーではありません。それは、現代のSNS社会で日常的に繰り広げられる「私刑(リンチ)」を予見していたかのような、恐ろしいほどリアルな現代社会の鏡です。

 

 

1. 「法の支配」という、人間を守るための境界線

 

いかなる犯罪であっても、それは法の正当な手続きを経て裁かれるべきものです。私はこれまで、ある事件に巻き込まれて、理不尽に思う経験をしたことがあります。

その時、相手を憎み、自らの手で八つ裂きにしたいという衝動に駆られなかったと言えば嘘になります。

しかし、もし私がその衝動に身を任せ、私刑という形で手を下していたら、私は「理性と知性」を失った獣に堕ちていたでしょう。復讐ではなく法に委ねることは、社会の秩序を守るためだけではなく、私自身が「人間としての尊厳」を失わないための、唯一の防波堤なのです。

 

 

2. 「共感」の分断が生むデジタル・デビル

 

SNSという空間では、私たちの「共感性」が、時に悪魔的な側面を見せます。「あいつは悪い奴だ」という断片的な情報に対し、共感のネットワークが瞬時に繋がり、思考停止したまま攻撃が増幅していく。これは、『デスノート』の主人公がネット上の世論を操り、人々を扇動した姿そのものです。

私たちは「自分の正義が正しい」と思い込むことで、無意識のうちに他者を踏みにじる「正義の悪魔」に変貌してしまいます。しかし、正義という仮面を被った私刑は、結局のところ、自分の心の痛みに対する鎮痛剤を他人の犠牲で求めようとする「私怨」に過ぎません。

 

 

3. 「死んだ信仰」を越えて:赦しという名の戦い

 

聖書には「行いを伴わない信仰は死んだものである(ヤコブ書2:26)」という教えがあります。

私はクリスチャンとして、裁きは法と神の領域にあると信じています。だからこそ、私はかつて自分を傷つけた相手を憎むのではなく、教会へと導き、改宗させるという道を選びました。これは単なる赦しではなく、相手の魂を神に委ね、彼らという存在から自分自身を解放するための、静かで力強い戦いでした。

SNSで匿名で石を投げるだけの行為は、何の解決にもなりません。本当に必要なのは、他者の痛みを自分の中に通し、論理的かつ誠実な対話を行うという「行い」です。

 

 

【結び】:悪魔の囁きに抗う知性

 

私たちは、感情的な高揚を「正義」と混同する悪魔の狡猾な囁きに、決して騙されてはいけません。

法を無視して誰かを裁く快感に身を委ねるのではなく、論理的な思考と、相手を人間として尊重する理性を持つこと。どんなに耐え難い痛みがあっても、衝動を「理性の檻」に留め、あとは法と神に委ねる。それこそが、情報が溢れる現代社会で、私たちが人間としての誇りを守り抜く唯一の方法です。

わたし個人、一人の人間が、かつての悲しみを「慈しみ」へと昇華させ、こうして声を上げていること。その姿こそが、SNSという荒野に灯る、何よりも確かな希望の光だと私は信じています。

【「縦の絆」と「横の繋がり」】・・・私が体感した、性差による友情のカタチ

私はかつて「男性」として社会を歩み、今は「女性」として生きています。この稀有な経験を経て、男性社会と女性社会の間にある、友情の構築方法の根本的な違いを痛感するようになりました。

1. 男性の友情:生存戦略としての「縦の秩序」

男性同士のコミュニティでは、しばしば「縦社会」の論理が優先されます。これは古来より、狩猟や闘争といった集団行動において、即座に指揮系統を確立するための生存戦略だったとも言われています。 その影響は現代にも根深く、男性にとっての友人は「上下関係」を伴うことが多いのです。年齢やキャリアという「序列」が介在し、たとえ親しい間柄でも、先輩・後輩という役割が友情の前提となります。これは、組織内での序列確認が、彼らにとっての安心感(自分がどこに位置するかの把握)に繋がっているからでしょう。

2. 女性の友情:生存戦略としての「共感のネットワーク」

対して、女性社会において友情の要となるのは「横の繋がり」です。脳科学の観点からは、女性は男性に比べて脳梁(左右の脳を繋ぐ部分)が太い傾向があり、言葉のやり取りを通じて感情を同期させる「共感性」が高いことが知られています。 そのため、女性にとっての友情は、上下関係ではなく「同じ時間を共有し、互いの感情を認め合う」という横の広がりが基盤となります。ここには序列は存在せず、年齢や世代という壁を超えて、フラットな関係を築くことができるのです。

3. 「脳の働き」が作る、異なる世界線

この違いは、どちらが優れているかという問題ではありません。社会に求められてきた役割や、脳が進化の過程で最適化してきた「生存戦略」の違いです。 男性は「課題解決のために役割を明確にする」ことで繋がり、女性は「感情の共有によって関係を維持する」ことで安心を得る。この前提があるからこそ、男性社会では時に「指導・被指導」の形が友情となり、女性社会では「共に寄り添う」ことが友情となるのです。

【結び】

両方の世界を生きてみて思うのは、私たちが真に豊かになれるのは、これらの「縦」と「横」の視点を柔軟に行き来できるようになった時ではないかということです。 私は今、女性として生きる中で、年齢や背景を超えた「横の繋がり」に、言葉にできないほどの救いと喜びを感じています。

きょんちゃんという存在が、この二つの世界を繋ぐ架け橋になれたら——。そう願わずにはいられません。

【提言】宮崎の未来を創る「知の拠点」:宮崎公立大学への法学部・経済学部創設の必要性

九州各県の中で、国公立大学に法学部または経済学部(それに準ずる社会科学系学部)が存在しないのは、現在、宮崎県のみとなっています。この「社会科学の空白」を埋めることは、単なる教育の充実にとどまらず、宮崎の経済、政治、そして地域社会全体の底上げに直結する喫緊の課題です。

1. 「社会科学系学部」欠如による損失とリスク

  • 若年層の流出(ブレイン・ドレイン): 法学・経済学を志す優秀な県内高校生の多くは、福岡や熊本、あるいは都市圏の大学へ進学せざるを得ません。進学に伴う県外流出は、そのまま県外での就職へと繋がり、宮崎の将来を担う知的資本の損失を招いています。

  • 行政・司法インフラの弱体化: 自治体職員や法曹界を目指す若者が地元で専門教育を受けられないことは、地域のガバナンス能力の低下に直結します。

2. 創設による具体的メリットとエビデンス

① 法学部:論理的思考に基づいた「地域統治」の担い手育成

  • 高度公務員輩出の拠点: 法学部は「公務員試験の登竜門」です。地元に法学部があることで、地方自治法や行政法に精通した質の高い行政官を安定的に育成でき、複雑化する地域課題に対応できる組織力が形成されます。

  • リーガル・マインドの醸成: 論理的思考力(リーガル・マインド)を持つ人材は、企業のリスクマネジメントやコンプライアンスの観点からも、地元企業にとって極めて貴重な存在となります。

② 経済学部:データ駆動型経営と「地域経済」の自立

  • エビデンスに基づく政策・経営: 現代の経済・ビジネスには統計学やデータ分析能力が不可欠です。経済学部で養成される「マクロ・ミクロの視点」と「分析力」は、県内の基幹産業である農業や製造業のDX(デジタルトランスフォーメーション)を加速させます。

  • 産学連携の高度化: 経済学部の教員による公開ゼミやシンクタンク機能は、地元企業にとっての経営コンサルティングの役割を果たし、地域全体のイノベーションを誘発します。

3. 過去の成功事例と宮崎公立大学の優位性

  • 北九州市立大学の事例: 北九州市立大学は、公立でありながら法・経済の両学部を持ち、九州有数の公務員輩出実績と経済人脈を築いています。これにより「地元大学出身のリーダー層」が地域経済を牽引する強固な学閥(人的ネットワーク)を形成し、地域への帰属意識を高めています。

  • 公立大学ならではの機動力: 国立大学(宮崎大学)の学部再編には文部科学省との複雑な調整が必要ですが、宮崎公立大学は「公立大学法人」として、設置者である宮崎市の判断と議会の承認により、地域のニーズに即した柔軟な学部設置が可能です。

4. 付け加えるべき「現代的意義」

  • リカレント教育(学び直し)の場: 現役の公務員や経営者が、働きながら法律や経済の最新知見を学べる「夜間主コース」や「科目等履修制度」を設けることで、地域全体の生涯学習レベルを引き上げることができます。

  • 政治家・次世代リーダーの育成: 法学・経済学という共通言語を持つリーダーが地元から育つことで、感情論に流されない、論理的で持続可能な政治・行政が実現します。

結論

宮崎公立大学への法学部・経済学部の誘致は、投資ではなく「宮崎の未来への再生産」です。優秀な人材を地元に「留置」し、彼らが宮崎の政治・経済を動かす「学閥(ネットワーク)」として機能する仕組みを今こそ構築すべきです。

——自治体版ソブリン・ウェルス・ファンド(SWF)による宮崎経済の再興——

現在、宮崎県が進めている「賃上げ対応緊急支援金(1事業所あたり上限350万円、1人あたり7万円)」は、物価高騰に苦しむ県民への即効性はあるものの、その効果は一過性に留まり、根本的な解決には至りません。29億円という巨額の予算を単なる「消費」で終わらせるのではなく、県自らが「自治体ファンド」を創設し、地方銀行との提携による「信用創造」を最大活用する戦略的な投資への転換を提案します。

1. 信用創造による「財源の最大化」

マクロ経済学における預金準備率が2%と仮定した場合、29億円の原資は理論上、最大で1,450億円規模の融資枠(信用創造)へと拡大可能です。 単なる給付(29億円の消滅)ではなく、この資金をファンドの原資として地方銀行に預託・連携することで、県内企業への大規模な設備投資や事業承継、スタートアップ支援へと回すことができます。これにより、国の地方交付税交付金に過度に依存しない、自律的な県政運営の礎を築けます。

2. 「投資」がもたらす経済の好循環

一過性の支援金は生活費として消費されますが、ファンドを通じた「事業投資」は以下の連鎖を生みます。

  • 生産性の向上: 企業は工場の最新機器導入やDX化に資金を充てることができ、競争力が強化されます。

  • 所得の向上: 企業の収益増は「一時的な手当」ではなく、継続的な「基本給の底上げ」を可能にします。

  • 雇用と税収の拡大: 事業拡大に伴う新規雇用の創出と、それに伴う法人税・住民税の増加により、投資した資金は中長期的に県財政へ還流します。

3. リスクマネジメントと回収可能性

「バラマキ」は100%回収不能なコストですが、ファンドによる貸付・投資は「資産」として残ります。

  • 信用保証協会の活用: 保証協会との連携により、回収不能リスクをヘッジすることが可能です。

  • 社会的リターン: 仮に一部の債権が焦げ付いたとしても、その過程で生まれた雇用や消費、信用創造による市場への資金供給効果は、当初の29億円の給付を遥かに上回る社会的リターンをもたらします。

結論

今、宮崎に求められているのは、知事選前のパフォーマンス的な配分ではなく、10年、20年先を見据えた「経済のエンジン」を作ることです。自治体と地元企業、そして地方金融機関が三位一体となり、事業創生を加速させる「宮崎型自治体ファンド」の早期創設を強く提言します。

【前書き】

 

「さて、霊の状態についてあなたに話そう。見よ、神に属するすべての人の霊は、彼らの肉体を離れるとすぐに、すなわち死の時に、神のもとに連れて行かれる。」(アルマ40章11-12節)

 

この聖句は、私たちが地上での生涯を終えた後、霊として神様の御元へ戻るという、救いの計画における重要な段階を示しています。

 

【死は永遠の別れではありません】

 

地上での死は、愛する人との永遠の別れではありません。それは、霊と肉体の一時的な分離にすぎないのです。救い主イエス・キリストの贖いと栄えある復活のおかげで、私たちは皆、再び肉体を持って立ち上がり、愛する人と再会することができます。そして、神殿で交わされる聖約を通して、家族の絆も永遠に続くのです。

 

【天の御父の計画とわたしたちの目的】

 

私たちは、この地上に生まれる前、天の両親の霊の子供として、御二人とともに霊の世界で生活していました(教義と聖約138章55-56節)。その頃、私たちはまだ霊の状態であり、肉体を持たない存在でした。

 

その霊の存在の時、天の御父はすべての子どもたちを集められ、私たちに「救いの計画」または「偉大な幸福の計画」と呼ばれる、壮大な神様の計画を示されました(アルマ42章5節、8節)。この永遠の計画には、私たちが神の最高の賜物である「永遠の命」を受けるために必要な、すべての律法と儀式が含まれています(教義と聖約6章13節)。

 

天の御父は、この完全な計画に基づき、この美しい地球を創造されました。そして、霊の子供たちに死すべき状態、すなわち肉体を得て経験を積み、栄光へと進むために必要な段階を経験する場所として、この地球を与えることを目的とされたのです。

 

しかし、天の御父の霊の子供たちのうち、残念ながら三分の一はこの計画を受け入れませんでした。彼らは、神の計画に反対し、自らの計画を主張した悪魔となったルシフェルに従うことを選び、天の御父の御前から追放されてしまったのです(黙示録12章7-9節参照)。

 

私たちが今、この地上に存在しているのは、前世において天の御父の計画に従うことを選んだからです。地上での私たちの目的の一つは、肉体を得ることです。肉体を得ることで、私たちはこの世で喜びや平安を味わうことができますが、同時に試練や誘惑、予期せぬ逆境にも直面します。これらの地上での経験を通して、私たちは霊的に成長し、天の御父にさらに近づくことができるのです。

 

つまり、私たちがこの地上に来た究極の目的は、日の栄え、すなわち神のようになるという昇栄を目指すためなのです。

 

ここでいう「栄光」とは、天の御父が全ての子供たちに望んでおられる最高の状態のことです。この「全ての子供たち」というのは、現在地上にいる皆さんや、まだバプテスマを受けていない全ての人類、そして、まだ地球に来ていない神様の霊の子供たち、そして、すでに霊界に旅立たれた私たちの先祖を含む、全人類を指しています。

 

神様が創造された王国には、様々な王国と栄光がありますが、天の御父がご自分の子供たちに何よりも望んでおられるのは、以前、トーマス・S・モンソン大管長がおっしゃられた、「神の王国(における)永遠の命」、すなわち家族が永遠に結び固められ、共に昇栄することなのです。

 

この永遠の命、昇栄は、単なる救い以上の、より高い祝福であると言われています。

 

ラッセル・M・ネルソン大管長は、私たちがこの重要な真理を常に心に留めるよう、次のように教えてくださいました。「神の永遠の計画において、救いは個人の問題で(すが)、昇栄は家族の問題です。」(リアホナ2017年10月号、ダリン・H・オークス長老「計画と宣言」より)

 

ジョセフ・スミス訳マタイ6章38節には、この永遠の視点から生きるようにという主の教えが記されています。「だから、この世のものを求めないで、まず、神の王国を築き、神の義を打ち立てることを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」(ジョセフ・スミス訳マタイ6章38節)

 

更に、教義と聖約18章15節には、私たちが救いの計画を他の人々と分かち合うことの重要性が強調されています。「あなたがたは、この民に悔い改めを叫ぶことに生涯力を尽くし、一人でもわたしの許に導き寄せるならば、わたしの父の王国で彼とともに受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。」(教義と聖約18章15節)

 

【イエス・キリストの贖い】

 

天の御父の完全な計画の中心にあるのが、愛する御子イエス・キリストの贖いの犠牲です。イエス・キリストは、無限の愛をもって、霊的な死と肉体の死を克服し、私たちのすべての苦しみや悲しみ、そして罪をその身に引き受けてくださいました(アルマ7章11-13節参照)。そして、死の力を打ち破り、完全な、朽ちない肉体で復活されました。この計り知れない苦しみ、死、そして栄光ある復活の働きこそが、「贖い」と呼ばれる、私たちにとって不可欠な賜物なのです。

 

なぜ、この贖いの犠牲が私たちにとって必要なのでしょうか?聖書には、「清くない者は神とともに住むことができない」(1ニーファイ10章21節)と明確に記されています。しかし、イエス・キリストの完全な犠牲を通して、私たちは誠心誠意悔い改めることによって霊的に清められ、再び天の御父とともに永遠に住むという、最高の祝福を受けることができるのです。

 

【選択の自由と儀式の重要性】

 

神様の壮大な計画の中で、もう一つ欠かすことのできない重要な要素が「選択の自由」、つまり自分の意思で選び、行動する力です。私たちは皆、自分の行いを自らの意志で決める自由という、神聖な賜物を与えられています。救い主イエス・キリストの贖いを信じ、受け入れるかどうかという、最も重要な選択でさえ、私たち自身が行うことができるのです。

 

もし私たちが、知恵と愛に満ちた天の御父の戒めを守ることを意識的に選ぶならば、神聖な儀式にあずかるという、比類なき祝福を受けることができます。儀式とは、私たちと神様との間で交わされる神聖な約束であり、バプテスマや聖霊の確認、神殿でのエンダウメントと結び固めの儀式、神権の聖任などが含まれます。これらの儀式を通して、私たちは霊的にさらに成長し、天の御父に近づき、永遠の命への道を歩むことができるのです。

 

【死後の世界と復活】

 

天の御父の慈しみ深い計画の一部として、全ての人に地上での死が訪れます。死とは、私たちの霊が、これまで共に歩んできた肉体から離れる、自然な過程です。前世で霊として存在していた私たちの霊は、肉体を離れた後も生き続け、霊の世界へと移行します。

 

もし私たちがこの地上で義にかなった生涯を送り、過ちを犯した際には誠心誠意悔い改めながら神様の御心に従って歩むなら、私たちは「霊のパラダイス」と呼ばれる、平安と喜びの状態に行くことができます。モルモン書の偉大な預言者アルマは、この霊のパラダイスの状態を「安息と平安の状態、すなわち憩いの状態、平安の状態」と表現しています(アルマ40章12節)。

 

そして、イエス・キリストの贖いの偉大な賜物のおかげで、全ての人類は必ず復活します。つまり、私たちの霊と、かつて死を経験した肉体が再び完全な形で結びつくのです(1コリント15章20-22節、教義と聖約88章14-17節参照)。そして、この普遍的な復活の後、私たちは皆、義なる裁き主である神様の御前に立ち、最終的な裁きを受けることになります。

 

その裁きは、私たちの心の奥底にある望みと、神様の愛に満ちた戒めに対する私たちの従順さに応じて、公平に行われます(2ニーファイ9章15-17節、教義と聖約137章9節参照)。もし私たちが生涯を通して悔い改め、神様の教えに従って生活するならば、最終的には天の御父とともに、永遠の栄光の中で住むことができるのです(アルマ40章、41章、教義と聖約76章参照)。

 

救い主イエス・キリストご自身が言われたように、「それで、もはや二人ではなく、一体である。だから、神が結び合わせたものを、人が引き離してはならない。」(マタイ19章6節)

 

この聖句が示すように、神殿で永遠に結び固められた夫婦と家族は、この地上での生涯だけでなく、永遠に続くのです。私たちは、地上での死は一時的なものであり、神様の約束された来たるべき日に、再び愛する人と喜びをもって再会することができることを、確固たる信仰をもって証いたします。

 

愛する兄弟姉妹の皆さん。私たちの主イエス・キリストの恵みが、皆さんの霊と共にあるように、アーメン。(ガラテヤ6章18節)

私たちは皆、神様から選択の自由という貴い賜り物を与えられています。

 

選択の自由とは、「自ら選び取る権利」と「その選択に基づいて自らのために行動する権利」のことです。

 

この神聖な賜物によって、私たちはイエス・キリストに従い、自由と永遠の命を選ぶこともできますし、サタンの誘惑に屈し、束縛と霊的な死を選ぶこともできます。

 

前世において、私たちはすでに道徳的な選択の自由を持っていました。そして、この地上に生を受けた目的の一つは、私たちが何を選び取るかを自ら明らかにすることなのです。自らの意志で選び取った行いは、より深い喜びと学びをもたらしてくれます。

 

前世における天上の会議において、主要な議題の一つとして取り上げられたのが、この選択の自由でした。私たちはその会議で、イエス・キリストの教えに従い、選択の自由を通して再び天の御父の御元へ帰る道を選ぶことを決意したのです。

 

選択の自由が与えられていることによって、この現世の生涯は、私たちにとって試しの期間となります。もし、選択の自由がなければ、この地上での経験は無意味なものとなり、私たちは霊的に成長することも、真の喜びを得ることもできません。そして、天の御父が私たちに命じられた全てのことを、自らの意志で行うかどうかを示すこともできなかったでしょう。

 

神様は、霊の子供たちに肉体を与える計画を立てられた時、「わたしたちはこれによって彼らを試し、何であろうと、主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうか見よう。」(アブラハム3章25節)と仰せになりました。

 

私たちには、この貴い選択の自由と同時に、自分の選びと行動の結果に対して責任を負うという重要な原則も伴っています。

 

では、どのようにすれば、常に正しい選択をすることができるのでしょうか。

 

それは、常に神様の救いの計画に従って生活することを選ぶことです。救いの計画に沿って生活することを選択するとき、私たちは選択する力を増し加えられます。つまり、主が私たちを助けてくださるのです。そして、その助けによって、さらに正しい選択をするための力と知恵が与えられます。

 

言い換えれば、救いの計画に従い、正しい生活を意識的に選択するとき、私たちはその選択を安心して実行することができ、その経験を通して、より良い選択をする能力が養われるのです。

 

そして、天の御父の戒めを一つ一つ忠実に守るにつれて、私たちは知恵を増し、確固たる人格が築かれ、信仰が深く根を下ろしていきます。その結果、さらに正しい選択をすることが、以前よりも容易になってくるのです。

 

では、なぜ私たちが生きるこの現世には、善と悪という相反するものが存在するのでしょうか。もし、神様の完全な世界であれば、悪など全く必要ないように思えませんか。

 

しかし、もし悪という対立するものが存在しなければ、私たちは義、つまり正しいことを選び取ることはできません。

 

その事実は、アダムとエバが、罪を知るまで長い間、エデンの園という楽園にいたことからも理解できます。彼らは、反対のものが存在しない状態では、道徳的な選択をすることができなかったのです。

 

神様は、サタンが善に刃向かうことを許しておられます。神様はサタンについて次のように言われました。

 

「わたしは、わたしの独り子であった、初めからわたしとともにいた者を追い落とした。そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、わたしの声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。」(モーセ4章3-4節)

 

サタンは、全力を尽くして神様の御業を打ち砕こうとしています。「全人類を惨めな状態にしようと」企て、「すべての人が自分のように惨めになることを求めて」います(2ニーファイ2章18節、27節)。サタンは私たちを愛しておらず、私たちのために善を行うことなど決してありません(モロナイ7章17節参照)。彼の唯一の目的は、私たちを不幸に陥れ、霊的な奴隷にすることです。彼は多くの巧妙な策略を用いて、私たちを捕らえようとしているのです。

 

サタンの誘惑に屈してしまうと、私たちの選択の自由は次第に狭められていきます。罪は私たちを束縛し、正しい選択をする力を弱めてしまうのです。

 

私たちは、どのように行動するかを選ぶ自由はありますが、その行動が必然的に招く結果を選ぶ自由はありません。選択には常に結果が伴うことを理解する必要があります。

 

天の御父は、私たちがサタンの束縛から逃れ、正しい選択をするための方法を教えてくださいました。それは、サタンの誘惑に負けないように、常に目を覚まして祈り、神様の助けを心から願い求めることです(3ニーファイ18章15節参照)。天の御父は、私たちが耐えられないような誘惑に遭わせられることはありません(1コリント10章13節、アルマ13章28節参照)。

 

神様の戒めは、私たちを危険から遠ざけ、永遠の命へと導くための羅針盤です。私たちが賢明な選択をするとき、私たちは昇栄を得、永遠に進歩し、完全な幸福を得ることができるのです(2ニーファイ2章27-28節参照)。

 

これらの真理を、イエス・キリストの御名によって力強く証いたします。

 

アーメン