祈りの目的と力

 

祈りの主な目的は、神様の御心を変えることではありません。むしろ、神様がすでに私たちに与えようと備えておられる祝福を、私たち自身と周りの人々のために受け取ることなのです。しかし、その祝福を得るためには、私たちが神様に求めなければなりません。

 

ラッセル・M・ネルソン大管長は、十二使徒定員会時代にこう教えてくださいました。「もし、母親が自分の子供たちの様子をこれほどまでに深く知りたいと願うのであれば、愛に満ちた天の御父が、なぜ御自身の子供たちの様子を知りたいと願っておられるのか、容易に想像することができます。祈りを通して、私たちは神様に愛を示すことができます。神様は、祈りを非常に簡単なものとしてくださいました。私たちはいつでも神様に祈ることができるのです。」

 

預言者たちは、古の時代から現代に至るまで、私たちに謙虚に、そして絶えず祈るようにと勧めてきました。

 

ゴードン・B・ヒンクレー大管長の教えから

 

ゴードン・B・ヒンクレー大管長の息子であるリチャードは、父の祈りについて次のように語っています。「私が記憶している限り、家族で祈らなかった日は一日もありませんでした。父の順番になると、父は決して芝居がかった口調になったり、感情的になったりすることなく、常に心を込めて祈っていました。父が祈るのを聞くことで、私たちは父の信仰の深さを深く理解することができました。父は、尊敬する賢明な教師や師に話しかけるかのような、深い敬意をもって神様の御名を呼びました。また、救い主イエス・キリストについて語る時も、深い愛情を込めていました。幼いながらに、私は御父と御子が父にとって実在する御方々であり、父が御二方を心から愛し、敬っていることを知りました。」

 

ヒンクレー大管長の妻であるマージョリーは、家族の祈りの影響についてこう述べています。「家族の祈りは、私たち親の願いに子供たちがどのように応えるかという点で、大きな影響を与えたと思います。子供たちは、ゴードンが説教という形で教えなくても、親である私たちが本当に聞いてほしいと願う全てのことを、家族の祈りを通して聞いていたのです。」これは、祈りが家庭における教えの重要な手段となり得ることを示唆しています。

 

ヒンクレー大管長自身は、「祈りと祈りの力を信じる」ように強く勧め、「祈ることによって、私たちのため、そして私たちの愛する人々のために、天の力が解き放たれる」と力強く証しています。さらに、「よく祈ってください。そうすれば、天の神があなたに微笑みかけ、豊かな祝福を与えてくださり、心に喜びが、そして生活に平安があるでしょう」と教えています。

 

聖書には、救い主イエス・キリストご自身がこう約束されています。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」(マタイ7章7節)

 

私たちは祈りを通して、天の御父である主イエス・キリストに近づくことができます。祈りは、私たちが感謝の気持ちを捧げる、主との神聖な対話となるのです。

 

祈りは、私たち自身の限られた知恵を超えた、神様の無限の知恵を得るための手段です。祈りを通して、私たちはなすべきことを行う力、困難な時に安心感と慰めを授かり、そして何よりも、日々の祝福に対する感謝の気持ちを主に伝えることができるのです。

 

ヒンクレー大管長はまた、祈りの個人的な性質について、次のように強調しています。「主イエス・キリストの御名によって天の御父と直接対話するという観点から言うと、祈りの最も素晴らしい点は、それが完全に個人的で、私たち独自のものだということです。他人が入り込む余地はありません。よく祈ってください。あなたの罪の赦しを、主に謙虚に求めてください。助けを求め、祝福してくださるように、またあなたの義にかなった願いが実現するよう助けていただけるように、主に懇願してください。皆さんの生活で本当に大切なもの全てを主に捧げてください。主はいつでも助ける備えをしておられます。そのことを決して忘れないでください。」

 

さらに、家庭における家族の祈りの重要性について、こう語っています。「古くから守られてきた祈りの習慣、すなわち家庭でささげる家族の祈りの規範を取り戻すことは、社会の品格をむしばむ恐ろしい病を食い止める基本的な治療薬の一つだと私は思います。たった一日で奇跡が起こることを期待するべきではありませんが、皆さんの子供たちが大人になる頃には、その奇跡を目にするでしょう。」

 

そして、祈りの質について、次のような深い洞察を与えてくださいました。「答えがあることを期待しながら主に祈りましょう。……私たちのほとんどの祈りで問題なのは、電話で食料品を注文するように祈ることです。注文が終われば電話を切るように、願い事を伝えると一方的に祈りを終えてしまいます。私たちは、何を祈り、何を願うべきかを瞑想し、熟考し、深く考える必要があります。その上で、人が親しい友人と語るように、主と心を開いて話をするのです。『主は言われる、さあわれわれは互に論じよう。』(イザヤ1章18節)」

 

ヒンクレー大管長は、祈りの効果について力強く証しています。「主の御手に全てを委ねることほど、大きな助けとなるものはありません。……私はこれまで、祈りが確かに答えられてきたと、躊躇なく言うことができます。答えられたと知っていることを、否定することはできません。この困難な時代にあって、導きを求めて祈ることは不可欠です。……素晴らしいのは、特別な才能がなくても、誰もが祈ることができるということです。主は、最も謙虚な人々の声にも耳を傾けてくださいます。……主を呼び求めてください。主は、私たちを招いておられ、必ず答えてくださいます。」

 

そして、こう結論づけています。「祈りの持つ力と尊厳を信じてください。主は、私たちの誠実な祈りに必ず答えてくださいます。」

 

ホランド長老のお話

 

十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は、祈りについて次のように温かい言葉で語っています。「愛する友人の皆さん、祈りとは、私たちにとって最も喜ばしい時間であり、心の奥底からの『切なる望み』であり、最も簡素で最も純粋な礼拝です。私たちは個人として、家族として、またあらゆる規模の集会で祈るべきです。人生における様々な誘惑に対抗するための盾として、常に祈りの助けを借りるべきです。もし祈る気持ちになれない時があるならば、その気持ちは決して神様から来るものではないと確信できます。なぜなら、神様はいつも御自身の子供たちと交わりたいと、切に望んでおられるからです。」

 

祈りは、私たちが個人的に、そして直接、天の御父である主と対話できる、驚くほど素晴らしい機会です。祈りには、神聖な力が宿っています。

 

私は、自身の経験を通して、この真理を確かに証いたします。

 

イエス・キリストの御名によって、アーメン

私たちは皆、神様から選択の自由という貴い賜り物を与えられています。

 

選択の自由とは、「自ら選び取る権利」と「その選択に基づいて自らのために行動する権利」のことです。

 

この神聖な賜物によって、私たちはイエス・キリストに従い、自由と永遠の命を選ぶこともできますし、サタンの誘惑に屈し、束縛と霊的な死を選ぶこともできます。

 

前世において、私たちはすでに道徳的な選択の自由を持っていました。そして、この地上に生を受けた目的の一つは、私たちが何を選び取るかを自ら明らかにすることなのです。自らの意志で選び取った行いは、より深い喜びと学びをもたらしてくれます。

 

前世における天上の会議において、主要な議題の一つとして取り上げられたのが、この選択の自由でした。私たちはその会議で、イエス・キリストの教えに従い、選択の自由を通して再び天の御父の御元へ帰る道を選ぶことを決意したのです。

 

選択の自由が与えられていることによって、この現世の生涯は、私たちにとって試しの期間となります。もし、選択の自由がなければ、この地上での経験は無意味なものとなり、私たちは霊的に成長することも、真の喜びを得ることもできません。そして、天の御父が私たちに命じられた全てのことを、自らの意志で行うかどうかを示すこともできなかったでしょう。

 

神様は、霊の子供たちに肉体を与える計画を立てられた時、「わたしたちはこれによって彼らを試し、何であろうと、主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうか見よう。」(アブラハム3章25節)と仰せになりました。

 

私たちには、この貴い選択の自由と同時に、自分の選びと行動の結果に対して責任を負うという重要な原則も伴っています。

 

では、どのようにすれば、常に正しい選択をすることができるのでしょうか。

 

それは、常に神様の救いの計画に従って生活することを選ぶことです。救いの計画に沿って生活することを選択するとき、私たちは選択する力を増し加えられます。つまり、主が私たちを助けてくださるのです。そして、その助けによって、さらに正しい選択をするための力と知恵が与えられます。

 

言い換えれば、救いの計画に従い、正しい生活を意識的に選択するとき、私たちはその選択を安心して実行することができ、その経験を通して、より良い選択をする能力が養われるのです。

 

そして、天の御父の戒めを一つ一つ忠実に守るにつれて、私たちは知恵を増し、確固たる人格が築かれ、信仰が深く根を下ろしていきます。その結果、さらに正しい選択をすることが、以前よりも容易になってくるのです。

 

では、なぜ私たちが生きるこの現世には、善と悪という相反するものが存在するのでしょうか。もし、神様の完全な世界であれば、悪など全く必要ないように思えませんか。

 

しかし、もし悪という対立するものが存在しなければ、私たちは義、つまり正しいことを選び取ることはできません。

 

その事実は、アダムとエバが、罪を知るまで長い間、エデンの園という楽園にいたことからも理解できます。彼らは、反対のものが存在しない状態では、道徳的な選択をすることができなかったのです。

 

神様は、サタンが善に刃向かうことを許しておられます。神様はサタンについて次のように言われました。

 

「わたしは、わたしの独り子であった、初めからわたしとともにいた者を追い落とした。そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、わたしの声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。」(モーセ4章3-4節)

 

サタンは、全力を尽くして神様の御業を打ち砕こうとしています。「全人類を惨めな状態にしようと」企て、「すべての人が自分のように惨めになることを求めて」います(2ニーファイ2章18節、27節)。サタンは私たちを愛しておらず、私たちのために善を行うことなど決してありません(モロナイ7章17節参照)。彼の唯一の目的は、私たちを不幸に陥れ、霊的な奴隷にすることです。彼は多くの巧妙な策略を用いて、私たちを捕らえようとしているのです。

 

サタンの誘惑に屈してしまうと、私たちの選択の自由は次第に狭められていきます。罪は私たちを束縛し、正しい選択をする力を弱めてしまうのです。

 

私たちは、どのように行動するかを選ぶ自由はありますが、その行動が必然的に招く結果を選ぶ自由はありません。選択には常に結果が伴うことを理解する必要があります。

 

天の御父は、私たちがサタンの束縛から逃れ、正しい選択をするための方法を教えてくださいました。それは、サタンの誘惑に負けないように、常に目を覚まして祈り、神様の助けを心から願い求めることです(3ニーファイ18章15節参照)。天の御父は、私たちが耐えられないような誘惑に遭わせられることはありません(1コリント10章13節、アルマ13章28節参照)。

 

神様の戒めは、私たちを危険から遠ざけ、永遠の命へと導くための羅針盤です。私たちが賢明な選択をするとき、私たちは昇栄を得、永遠に進歩し、完全な幸福を得ることができるのです(2ニーファイ2章27-28節参照)。

 

これらの真理を、イエス・キリストの御名によって力強く証いたします。

 

アーメン

【前書き】

 

「さて、霊の状態についてあなたに話そう。見よ、神に属するすべての人の霊は、彼らの肉体を離れるとすぐに、すなわち死の時に、神のもとに連れて行かれる。」(アルマ40章11-12節)

 

この聖句は、私たちが地上での生涯を終えた後、霊として神様の御元へ戻るという、救いの計画における重要な段階を示しています。

 

【死は永遠の別れではありません】

 

地上での死は、愛する人との永遠の別れではありません。それは、霊と肉体の一時的な分離にすぎないのです。救い主イエス・キリストの贖いと栄えある復活のおかげで、私たちは皆、再び肉体を持って立ち上がり、愛する人と再会することができます。そして、神殿で交わされる聖約を通して、家族の絆も永遠に続くのです。

 

【天の御父の計画とわたしたちの目的】

 

私たちは、この地上に生まれる前、天の両親の霊の子供として、御二人とともに霊の世界で生活していました(教義と聖約138章55-56節)。その頃、私たちはまだ霊の状態であり、肉体を持たない存在でした。

 

その霊の存在の時、天の御父はすべての子どもたちを集められ、私たちに「救いの計画」または「偉大な幸福の計画」と呼ばれる、壮大な神様の計画を示されました(アルマ42章5節、8節)。この永遠の計画には、私たちが神の最高の賜物である「永遠の命」を受けるために必要な、すべての律法と儀式が含まれています(教義と聖約6章13節)。

 

天の御父は、この完全な計画に基づき、この美しい地球を創造されました。そして、霊の子供たちに死すべき状態、すなわち肉体を得て経験を積み、栄光へと進むために必要な段階を経験する場所として、この地球を与えることを目的とされたのです。

 

しかし、天の御父の霊の子供たちのうち、残念ながら三分の一はこの計画を受け入れませんでした。彼らは、神の計画に反対し、自らの計画を主張した悪魔となったルシフェルに従うことを選び、天の御父の御前から追放されてしまったのです(黙示録12章7-9節参照)。

 

私たちが今、この地上に存在しているのは、前世において天の御父の計画に従うことを選んだからです。地上での私たちの目的の一つは、肉体を得ることです。肉体を得ることで、私たちはこの世で喜びや平安を味わうことができますが、同時に試練や誘惑、予期せぬ逆境にも直面します。これらの地上での経験を通して、私たちは霊的に成長し、天の御父にさらに近づくことができるのです。

 

つまり、私たちがこの地上に来た究極の目的は、日の栄え、すなわち神のようになるという昇栄を目指すためなのです。

 

ここでいう「栄光」とは、天の御父が全ての子供たちに望んでおられる最高の状態のことです。この「全ての子供たち」というのは、現在地上にいる皆さんや、まだバプテスマを受けていない全ての人類、そして、まだ地球に来ていない神様の霊の子供たち、そして、すでに霊界に旅立たれた私たちの先祖を含む、全人類を指しています。

 

神様が創造された王国には、様々な王国と栄光がありますが、天の御父がご自分の子供たちに何よりも望んでおられるのは、以前、トーマス・S・モンソン大管長がおっしゃられた、「神の王国(における)永遠の命」、すなわち家族が永遠に結び固められ、共に昇栄することなのです。

 

この永遠の命、昇栄は、単なる救い以上の、より高い祝福であると言われています。

 

ラッセル・M・ネルソン大管長は、私たちがこの重要な真理を常に心に留めるよう、次のように教えてくださいました。「神の永遠の計画において、救いは個人の問題で(すが)、昇栄は家族の問題です。」(リアホナ2017年10月号、ダリン・H・オークス長老「計画と宣言」より)

 

ジョセフ・スミス訳マタイ6章38節には、この永遠の視点から生きるようにという主の教えが記されています。「だから、この世のものを求めないで、まず、神の王国を築き、神の義を打ち立てることを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」(ジョセフ・スミス訳マタイ6章38節)

 

更に、教義と聖約18章15節には、私たちが救いの計画を他の人々と分かち合うことの重要性が強調されています。「あなたがたは、この民に悔い改めを叫ぶことに生涯力を尽くし、一人でもわたしの許に導き寄せるならば、わたしの父の王国で彼とともに受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。」(教義と聖約18章15節)

 

【イエス・キリストの贖い】

 

天の御父の完全な計画の中心にあるのが、愛する御子イエス・キリストの贖いの犠牲です。イエス・キリストは、無限の愛をもって、霊的な死と肉体の死を克服し、私たちのすべての苦しみや悲しみ、そして罪をその身に引き受けてくださいました(アルマ7章11-13節参照)。そして、死の力を打ち破り、完全な、朽ちない肉体で復活されました。この計り知れない苦しみ、死、そして栄光ある復活の働きこそが、「贖い」と呼ばれる、私たちにとって不可欠な賜物なのです。

 

なぜ、この贖いの犠牲が私たちにとって必要なのでしょうか?聖書には、「清くない者は神とともに住むことができない」(1ニーファイ10章21節)と明確に記されています。しかし、イエス・キリストの完全な犠牲を通して、私たちは誠心誠意悔い改めることによって霊的に清められ、再び天の御父とともに永遠に住むという、最高の祝福を受けることができるのです。

 

【選択の自由と儀式の重要性】

 

神様の壮大な計画の中で、もう一つ欠かすことのできない重要な要素が「選択の自由」、つまり自分の意思で選び、行動する力です。私たちは皆、自分の行いを自らの意志で決める自由という、神聖な賜物を与えられています。救い主イエス・キリストの贖いを信じ、受け入れるかどうかという、最も重要な選択でさえ、私たち自身が行うことができるのです。

 

もし私たちが、知恵と愛に満ちた天の御父の戒めを守ることを意識的に選ぶならば、神聖な儀式にあずかるという、比類なき祝福を受けることができます。儀式とは、私たちと神様との間で交わされる神聖な約束であり、バプテスマや聖霊の確認、神殿でのエンダウメントと結び固めの儀式、神権の聖任などが含まれます。これらの儀式を通して、私たちは霊的にさらに成長し、天の御父に近づき、永遠の命への道を歩むことができるのです。

 

【死後の世界と復活】

 

天の御父の慈しみ深い計画の一部として、全ての人に地上での死が訪れます。死とは、私たちの霊が、これまで共に歩んできた肉体から離れる、自然な過程です。前世で霊として存在していた私たちの霊は、肉体を離れた後も生き続け、霊の世界へと移行します。

 

もし私たちがこの地上で義にかなった生涯を送り、過ちを犯した際には誠心誠意悔い改めながら神様の御心に従って歩むなら、私たちは「霊のパラダイス」と呼ばれる、平安と喜びの状態に行くことができます。モルモン書の偉大な預言者アルマは、この霊のパラダイスの状態を「安息と平安の状態、すなわち憩いの状態、平安の状態」と表現しています(アルマ40章12節)。

 

そして、イエス・キリストの贖いの偉大な賜物のおかげで、全ての人類は必ず復活します。つまり、私たちの霊と、かつて死を経験した肉体が再び完全な形で結びつくのです(1コリント15章20-22節、教義と聖約88章14-17節参照)。そして、この普遍的な復活の後、私たちは皆、義なる裁き主である神様の御前に立ち、最終的な裁きを受けることになります。

 

その裁きは、私たちの心の奥底にある望みと、神様の愛に満ちた戒めに対する私たちの従順さに応じて、公平に行われます(2ニーファイ9章15-17節、教義と聖約137章9節参照)。もし私たちが生涯を通して悔い改め、神様の教えに従って生活するならば、最終的には天の御父とともに、永遠の栄光の中で住むことができるのです(アルマ40章、41章、教義と聖約76章参照)。

 

救い主イエス・キリストご自身が言われたように、「それで、もはや二人ではなく、一体である。だから、神が結び合わせたものを、人が引き離してはならない。」(マタイ19章6節)

 

この聖句が示すように、神殿で永遠に結び固められた夫婦と家族は、この地上での生涯だけでなく、永遠に続くのです。私たちは、地上での死は一時的なものであり、神様の約束された来たるべき日に、再び愛する人と喜びをもって再会することができることを、確固たる信仰をもって証いたします。

 

愛する兄弟姉妹の皆さん。私たちの主イエス・キリストの恵みが、皆さんの霊と共にあるように、アーメン。(ガラテヤ6章18節)

皆さんは、『パートナーシップ制度自治体間連携ネットワーク』という存在をご存知でしょうか。

これは、同性カップルなどが自治体から発行された「結婚に相当する関係」の証明書を、転居先の自治体でもそのまま継続して利用できるようにする仕組みです。しかし、ここに大きな落とし穴があります。

宮崎県は、全国規模の広域連携ネットワークに加盟していません。

そのため、宮崎県内で宣誓をしたカップルが仕事や介護などの事情で県外(例えば福岡県や東京都など)に転出すると、その瞬間に二人の絆を証明する公的な効力は失われ、「ただの他人」に戻ってしまうのです。これは、人生の選択肢を狭める極めて深刻な問題です。

1. 県内でも進む「格差」と「空白地帯」

現在、宮崎県内では独自の自治体間連携を行っている市町(宮崎市、延岡市、日向市、高千穂町、西都市、木城町、えびの市など)がありますが、そのネットワークは限定的です。

例えば、連携に加わっていない都城市などへ移住した場合や、宮崎市と都城市の住民同士のカップルの場合、制度の継続利用が困難になるケースがあります。

県内全域をカバーする「宮崎県パートナーシップ宣誓制度」は開始されましたが、各市町村が提供する独自の行政サービス(公営住宅の入居など)をスムーズに引き継ぐためには、自治体間の緊密な連携協定が不可欠なのです。

2. 「法律」を待たずとも、知事や議会の決断で変えられる

同性婚の法制化には国レベルの法改正が必要ですが、「自治体間連携ネットワークへの加盟」は、知事や議会が真剣に向き合い、決断するだけで今すぐにでも実現可能な施策です。

「制度があるから十分」ではありません。

その制度が、県外への転出や県内での移動によって「無効」になってしまう現状は、当事者にとって安心とは程遠いものです。

3. 未来の子どもたちのために

私がこの声を上げるのは、今の私たちのためだけではありません。

これから社会に出ていく子どもたちが、どの街に住んでも、誰を愛しても、その尊厳が守られ続ける社会を築きたい。そのためには、自治体の境界線で権利が途切れるような不備を、一刻も早く解消する必要があります。

知事、そして議員の皆様。

どうか、この「制度の空白」を埋めるための具体的なアクションをお願いいたします。

「行いを伴う信仰」:生涯をかけて証し続ける決意

今日、新約聖書のヤコブ書を読み、魂を揺さぶられるような感銘を受けました。

「ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」(ヤコブ書 2章 15~17節)

聖書に登場する偉大な使徒たちを振り返ってみても、その信仰の歩みは決して平坦ではありませんでした。

  • 使徒トマスは、主と共に死ぬ覚悟を決め、他の弟子たちを鼓舞するほどの情熱を持っていました。

  • 使徒ペテロは、荒れ狂う湖の上を数歩でも歩き出すという、驚くべき信仰を示しました。

しかし、主イエスの目から見れば、彼らでさえまだ「信仰の薄い者」であったのです。

 

彼らほどの偉大な先達でさえそうであったのなら、ましてや私たちが持っている信仰は、どれほど微かなものでしょうか。そう思うと、信仰とは一度手に入れれば終わるものではなく、生涯をかけて日々の「行い」の中で実践し、磨き続けていかなければならないものだと改めて気づかされました。

 

言葉だけで終わらせるのではなく、主が今この瞬間も私たちのすぐそばに生きておられることを、自らの生き方をもって証ししていきたい。そう決意を新たにしています。

 

主は生きて、私たちのすぐ側におられることを証します。 イエス・キリストの御名によって、アーメン。

50歳での決断:全国誌掲載に込めた「経営者」としての覚悟と「当事者」としての願い

2025年5月、ロータリアンのための全国誌「ロータリーの友」の連載企画「この人訪ねて」に、私の歩みが掲載されました。 題して、『50歳を機にトランスジェンダーを公表 当事者の声広め 多様性認める社会へ』

4ページにわたり、私の半生と、一企業の代表としての決断を非常に丁寧にまとめていただきました。私がこの大きな取材を受けるに至った背景には、単なる自己開示を超えた、3つの強い社会的使命がありました。

1. 私が取材を受けた「3つの使命」

  • 次世代の光になること: 私と同じように、自らのアイデンティティと社会の荒波の間で苦しんでいる子供たちにとって、希望の道標(ひかり)でありたいと願っています。

  • オピニオンリーダーへの啓発: 社会を動かすリーダー層であるロータリアンの方々に届くことで、職場や地域社会におけるトランスジェンダーの認知が正しく広がることを目指しました。

  • 正確な知識の普及: トランスジェンダーは、WHO(世界保健機関)の最新基準『ICD-11』においても明確に定義されている「GI(ジェンダー・インコングルエンス:性別不合)」という医学的な状態です。単なる嗜好や一時的な感情ではなく、適切な理解が必要な課題であることを広く伝えたいと考えました。

2. 「誠実さ」を貫くための4つの準備

全国規模での公表にあたっては、経営者として、また一人の人間として、曖昧さを残さないための緻密な準備を行いました。

  • 家族と従業員への「誠実」な対話: 株式会社アルファネットの代表として、まずは家族、そして共に歩む社員全員の同意を得ることを最優先しました。組織の長としての説明責任を果たし、揺るぎない信頼関係を確認した上で、この取材に臨みました。

  • 全方位へのカミングアウト: 記事の掲載は、まだ私の背景を知らない方々への公表も意味します。逃げ隠れせず、周囲に事前に公表することで、人脈と信頼を損なわないためのリスクマネジメントを徹底しました。

  • 真実の精査(セルフ・レビュー): 記事に嘘や隠し事があってはならないため、自らの半生を徹底的に振り返り、事実関係を再確認しました。事前に「自伝的資料」を作成したことで、3日間にわたる濃密な取材もスムーズに進めることができました。

  • ビジュアルへの妥協なき姿勢: 写真撮影では100枚を超えるカットを重ね、読者に「ありのままの、しかし凛とした姿」を届けるための最善を尽くしました。

3. 多様性が「経済」と「社会」を強くする

今回の取材は、対面だけでなく、zoomやLINE等を通じた丁寧なプロセスを経て完成しました。 私が身をもって示したいのは、「性的マイノリティであることと、ビジネスにおける能力や信頼は一切矛盾しない」という事実です。

偏見という垣根を取り払うことは、単なる人道支援ではありません。あらゆる個性がその能力を最大限に発揮できる社会を築くことは、健全な経済発展のための必須条件です。 今回の掲載を一つの契機として、今後も様々なメディアを通じ、多様性を認め合える社会の実現に向けて発信し続けていく所存です

 

「解決」はいらない、欲しいのは「心の共鳴」だけ。

——男女のコミュニケーションに流れる、埋まらない溝——

 

先日、あるグループLINEに私の「グルメ日記」をアップした時のことです。 

女性たちからは「美味しそう!」「幸せな気分になるね」という共感のコメントがたくさん届きました。

 

対して、男性たちからは「普通が一番だよ」「俺の食事はいつも質素だ」といった、どこか諭すような、あるいは自分語りのようなコメントが返ってきました。

 

私は、毎日贅沢をしているわけではありません。たまに出会えた「美味しいもの」への感動を、みんなと分かち合いたい、ただそれだけなのです。

 

また、PMS(月経前症候群)のような、身体的・精神的に辛い時期の話題についても同様です。 

 

女性たちは「辛いよね」「無理しないで」と寄り添ってくれますが、

 

男性からは時として「根性が足りない」「甘えるな」といった叱咤や根性論が飛んできます。

 

実を言えば、答えはもう自分の中にあるのです。 

私が求めているのは、アドバイスでも批判でもなく、ただの「共感」です。

 

しかし、私の言う「共感」とは、ただ適当に頷いて「わかるわかる」と流すことではありません。

私の言葉を一度自分の中に通し、相手なりの意見や感情を乗せて返してくれる……そんな「心の共鳴」が欲しいのです。

 

「そんな風に感じていたんだね」「それは確かに辛いね」 その一言があるだけで、孤独な心はどれほど救われるでしょうか。

 

「正しい答え」を出すことよりも、目の前の人の「心の色」を一緒に眺めること。 そんな優しさが当たり前になる社会であってほしいと、切に願っています。