PSYCHO村上の怪奇骨董音楽箱
東宝の特撮作品の中でもカルト的な人気を誇るのが「マタンゴ」(1963年)である。今回、何故に本作を取り上げようと思ったのか。それは他の東宝特撮作品に比べて、一般層から誤解されたイメージを持たれていると感じたから。
「マタンゴ?ああ、子どもの頃にゴジラの本で見た事ありますよ。キノコのお化けが襲ってくる映画でしょ」。確かに間違いではなく、予告編を見るとそのようなイメージを与える作りとなっている。
嵐の海で船が遭難、流れ着いた島でキノコのお化けが登場し、女性陣がキャ~ッ!と悲鳴を上げる。本作のジャンルが怪奇ホラー映画と記されているので、インパクトのあるシーンを抜粋した予告編との見方もできるが、正直なところ作品の本質までは辿り着いていない。
また、ゴジラ・シリーズを筆頭に特撮作品と言えば怪獣への注目が高まるので、同様の見方で語るなら「マタンゴ」ではキノコ人間がそれに当てはまるだろう。私も初めて見たのが小学生の時だったので、若者グループとキノコ人間の戦いを描いた映画との認識を持ったまま大人になっていた。
改めて見直して本作が伝えたかった本当の主題に気付く事になる。「ゴジラ」は単に怪獣が暴れて終わる作品ではなく、そこには反核という明確なテーマが存在する。「マタンゴ」に存在する主たるテーマは「人間関係の崩壊」「本当の幸せとは何か」といったところだろう。
映画は、精神病院の一室で村井(久保明氏)が自分の身に起きた出来事を回想するシーンから始まる。男女7人でヨットに乗りバカンスを楽しんでいたものの、夜になると暗雲が立ち込め嵐によって遭難。ヨットは操縦不可能になり漂流する。
流されたヨットは、霧に包まれた不気味な島に辿り着く。島を散策するも無人島のようで、クタクタになりながら歩いていると、浜辺で難破船を発見。中に入るとカビやコケで覆われており、人が住んでいる気配はない。
発見された溶剤で船を綺麗に掃除し、男女7人はここを拠点に生活する。調べた結果、この船は国籍不明の海洋調査船で、放射能による影響を調べていたとわかる。船内には目のないウミガメの標本、巨大なキノコなどが置かれていた。
航海日誌によると、この島は無人島である事、マタンゴ(キノコ)は絶対に食べてはいけない事、乗組員が森に姿を消して帰って来ない事などが書かれていた。また船内の鏡が全て取り外されているという不可解な痕跡も。
当初は協力し合っていた男女7人であるが、食料を巡っての争い、女性を奪い合う喧嘩が勃発し、信頼関係が急激に低下して行く。ある日の夜中、甲板を誰かが歩く音が聞こえ、警戒する皆の前にキノコ人間が出現。
精神的にも肉体的にも追い込まれて行く男女7人。ナイフや銃を振り回す喧嘩も増える中、吉田(太刀川寛氏)がマタンゴを食べ精神が蝕まれて行く。ひとり、またひとりと空腹に耐えられなくなった者がマタンゴを食べ、船に戻らなくなった。マタンゴを食べると自分もキノコになるのだ。
リーダーとして皆をまとめていた作田(小泉博氏)が、食料をすべて奪いヨットで逃げる事件も勃発(後に空になったヨットだけが島に再度漂着し、作田は海に身を投げたと判る)。もはや誰も信じられない状況の中、村井は恋心を寄せていた相馬(矢代美紀氏)を守るべくキノコ人間と戦うが、相馬もマタンゴを食べてしまう。
大量のキノコ人間、マタンゴを食べる相馬、身体が半分キノコとなったかつての仲間と、狂気の光景を目の当たりにした村井は森を飛び出し、ヨットでひとり海に出た。その後、何日も漂流して救助され、精神病院に収監されたと語る。
再び病室のシーンへ。どんなに苦しい状況でもマタンゴを食べなかった村井であったが、振り返った顔は半分がキノコになっていた。「東京だって同じじゃありませんか。みんな人間らしさを忘れて。あの島で暮らした方が幸せだったんです」と言い、都会のネオンを眺めながら映画はエンディングを迎える。
今の歳で作品を見ると、キノコ人間は飽くまでモチーフであると気付く。重要なのはドラマ部分で描かれる、極限の状況に追い込まれた人間の姿だ。また、作品の締め括りとなる村井のセリフは様々な意味を内包していると思う。
みんな人間らしさを忘れている=みんなキノコ人間と同じと受け取れ、あの島も東京も同じようなものと言っているようだ。更に「あの島で暮らした方が幸せだった」は、社会に向けた痛烈なメッセージ、そして皮肉と解釈できる。
尚、本作は数年前に池袋でリヴァイヴァル上映され私も足を運んだ。その時は特撮映画4本立てのオールナイト上映。「マタンゴ」は午前3時30分より上映が始まった。大の大人が本作を見るために午前3時30分に映画館に集結する光景は、ある意味、狂気に満ちている(失礼!)。