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とある占い師のノート

恋愛、結婚、家庭、人間関係、仕事、経済、社会、健康、心理、霊性 ・・・ 日々ご相談を受けさせていただく中で考えたことを綴るノート。それと日記。


身近な人が亡くなると、その人の良い想い出、暖かい想い出ばかりが思い浮かぶ。

その人の嫌だと思っていたことは出て来ない。あるいは、出て来ても「赦している」。

これは、人の心が本来、“愛”と“赦し”で出来ているからなんだろう。



どちらが正しいということはない。

ほとんどは、等しく誤っている。

唯、真に「平安」な者だけが正しい。



最近、ブログの更新が数日置きになって来てる。

今探求してることが、なかなか言葉にしづらいからなんだけど。


分かる人には“一なる者”とか“生命の根源”とか“愛”とか何とか、一言で分かるけど、

これは一般常識的には、遥か昔に誤解を重ねられ、政治に利用され・・・

今となってはすっかり失われしまった概念―――体験です。

そしてそれが失われたが故に、あらゆる運命の病が生じています。


いわゆる、善悪の木の実を食べたが故に楽園は失われた・・・というやつですね。


人生のもっとも基本的なことなんだけど。

それは頭で理解しても大して意味はなく、体験し、

“それ”を生きるところまで回復しなければならない概念です。


まあ、まずは自分ですね。


自己実現とは本来そのことを言います。

願望を叶えるのが自己実現とか、マジで違いますから。


私たちは“生命の根源”から分離した幻想である“自我”に成りきっており、

怖れに満ちた妄想を仮に現実化して―――その“夢”を完全にリアルと思い込んでます。


そう言えば、映画「マトリックス」って、そのことをリアルに描いてますね。

ただ、夢から醒めた世界は、あんな薄暗い機械の世界ではないのでご安心を。

夢の世界の方が圧倒的に薄暗いです(笑)


これは全部、グチですね(笑) エゴから出ている言葉たち。

まあ、今探求してることは本来言葉で伝えることではないんですね。

そのことも、ちょっと分かってきた気がします。

先達たちが、なぜ「黙って」いるのか。


はい。がんばります。ある意味、がんばる。




未来を全部、天―――“一なる者”に委ねたら、

今あることが全て完璧なんだな、ということが見えてきますね:*:・( ̄∀ ̄)・:*:



10歳から仏像彫刻を始め、亡くなるまでに数千体を彫った仏師松久朋琳氏(1901~1987)は、

「彫るのではなくて、木の中におられる仏さんを、木屑を払ってお迎えするのです」 と述べている。


「自分」が彫るのではなく、目の前の「木」自身が成ろうとする姿に委ねて、木屑を払う。


“運命”も本来そういうものだと思う。

「自分」が“運命”を何とかするのではなく、運命の中に潜む“本来の生命”が現れるのに委ねる


「自分」が「自分の」運命を何とかするというのは、“運命”を「自分の型」にハメようともがくことでしかない。

「自分」という「記憶とその反応の塊」は、ただ記憶を再現しようとするのみで、

運命本来の“生命力”が発現するのを妨害する。


“運命”「自分」を越えようとすると、「怖れ」で抵抗して“生命”の発現を抑圧するのである。

斯くして抑圧された“生命力”は、「自分の運命」を妨害する他者や環境として誤解される。

その真実は、「自分」が“生命力”を妨害しているのである。


決して間違ってはならないのは、“運命”は「自分」のものではないということ。

“運命”は、森羅万象を調和・創造する、或る「大なる御方」のものである。

この御方のみが、その叡智大愛において、万人万物の幸い計り運営することができる。


「自分」本来の役割は、その“本来の生命”感知し、それに委ねることである。

そこにしか“平安”はない。


それ以外の方向を向けば、どんな戦略を練ったところで、

結局は「怖れ」と「障害」という幻を作り続けるだけである。

現代人類の運命の病は、どうもそういう原因で成り立っているらしい。


まずは“本来の生命”を感知し直すことである。

それは記憶を越え、時間を越えた「永遠の今」の内にある。

「怖れ」のない“大なる平安”に、親友の如く慣れ親しんでいくことである。